Q5-1 「字音かなづかひ」は、「かなづかひ」ではなく「漢字かながき」と呼ぶべきではないでせうか。

A5-1 漢字で書かれた語を假名で表現する、(ある)いは振り假名を振るといふ意味では全󠄁て「漢字かながき」ですが、例へば「女」の漢字かながきは「じよ」、「ぢよ」の二樣があり、更には「おんな」と「をんな」もあります。ここで、「ぢよ」、「をんな」とするのが歷史的假名遣󠄁の立場であり、「じよ」、「おんな」とするのが現代假名遣󠄁の立場であることは言ふまでもありません。「漢字かながき」がこれら二通󠄁りの立場と異るとすれば、「じよ」、「をんな」とするのか、或いは「じよ」、「ぢよ」、「おんな」、「をんな(いづ)れでもよいとする立場なのか明󠄁確にする必要󠄁があります。(たし)かに、()はゆるカタカナ語は外來音の假名書きとは言ひながら、書き方は一定してゐませんから、「音讀み」を外來語と考へれば「漢字かながき」の立場も理論的には成󠄁立します。しかし、從來の二樣の立場に加へ、第三の立場を主󠄁張出來るだけの積極的な意味を見出せるでせうか。特に「じよ」、「をんな」とする場合、原理の異る表記法の混合といふことになりますから理論的な批判󠄁に耐へられさうにありません。

Q5-2 「國語かなづかひ」と「字音かなづかひ」が同格の正統性をもつかどうか、或いは兩者の扱󠄁ひに輕重があるべきかどうか、私は「字音かなづかひ」の重要󠄁度の位相が、「國語かなづかひ」とは異なるやうに思つてゐます。後者を失へば全󠄁てを失ふが、逆󠄁はさうではなからうからです。

A5-2 「國語」と「字音語」とを別のものとして考へること自體にも問題がありますが、それはさて()き、この兩者がそれぞれ謂はゆる「和語」と「漢語」とを意味するものとして論を進󠄁めます。我が國の文字が漢字に始ることはいふまでもありません。「和語」に對してさへ漢字を(あて)なければ文字表記ができなかつた、さういふ歷史的事實を考へれば、「和語」と「漢語」とを截然(せつぜん)と分けることは、(そもそ)も可能なのでせうか。「()」、「()」、「()」、「()」などが「漢語」、「所󠄁以(ゆゑん)」、「佛頂面(ぶつちやうづら)」は「和語」などと分けて意識する方が不自然ではないでせうか。切離せない部分にそれぞれ異なつた原則を適用することが如何に混亂を招くか。現代假名遣󠄁は「口語」と「文語」といふ一見分離できる分野にそれぞれ異つた假名遣󠄁を適用しましたが、結局、歷史的假名遣󠄁を適用すべき文語にさへ現代假名遣󠄁が浸󠄁蝕(しんしょく)してゐるのが現狀です。從つて、字音假名遣󠄁を失へば「國語假名遣󠄁」も失ふのは(おそ)かれ早かれ時間の問題でせう。さうして最後に殘るのが助詞の「は」、「へ」、「を」だといふのであれば洒落(しゃれ)にもなりません。

*『大辭林』『日本國語大辭典』などによると、《ぶっちょうづら【佛頂面】〔佛頂尊󠄁の恐󠄁ろしい面相によるとも、不承面(フシヨウヅラ)の轉ともいう〕無愛想な顏。不機嫌󠄁な顏。ふくれっつら》とあります。「佛頂面」と漢字表記することで、語原の穿鑿(せんさく)を免れ、假名遣󠄁が「ぶつちやうづら」に落着くのが、漢字假名交り文の妙味です。ところが語原を考へると、「佛頂尊󠄁」のやうな(くらゐ)の高い佛樣が「ふくれつつら」をなさる筈もなく、寧󠄀(むし)ろ「()つてふ(といふ)つら」と解することもでき、さうなると、これは和語といふことになります。このやうに、和語と字音語を區別することは意外に困難なのです。

Q5-3 「字音假名遣󠄁」を遵󠄁守するといふ立場は、それが實行可能か(學習󠄁に容易か、字音通󠄁りに發音させるのか)、といつた敎育面での實際的考慮を明󠄁らかにしなければならないと思ひます。その意味で、元『神社新報』編󠄁輯長高井和大氏らの提案のやうに、「國語かなづかひ」は遵󠄁守するが、「(はう)」や「(やう)」もふくめて「字音」には從はないといふ態度も一つの決斷といへるのではないでせうか。

A5-3 まづ「字音(假名遣󠄁)には從はないといふ態度」に()いて考へて見ませう。この場合二つの選󠄁擇肢(せんたくし)が可能です。一つは勝󠄁手氣まま或いは自分獨自のやり方で表記する、もう一つは字音假名遣󠄁以外の規範に從ふことでせう。前󠄁者の典型は丸谷才一方式と呼ばれるもので、字音假名遣󠄁はほぼ「現代假名遣󠄁」を踏襲(たふしふ)し、國語假名遣󠄁については、歷史的假名遣󠄁を原則とするものの、同氏獨自の主󠄁張を盛󠄁込󠄁んで、自著の執筆に適用してゐるものですが、このやうな獨自方式の創造󠄁には非凡な才能と同時に、社會に受󠄁け容れさせる說得力が必要󠄁です。

 後者にいふ規範の一つは現代假名遣󠄁でせう。それに從ふ、それほど現代假名遣󠄁がよいものなら「國語假名遣󠄁」を遵󠄁守(じゅんしゅ)する必要󠄁があるでせうか。現代假名遣󠄁以外の規範としては、丸谷方式や、「庖丁(ほーちょー)を持つた男が銀行(ぎんこー)に押入り强盜(ごーとー)を働いた」、といつた(たぐひ)の謂はゆる棒引(ぼうび)き假名遣󠄁もあります。それに從ふのは自由ですが、「國語假名遣󠄁」の()の文への交ぜ書きはすべきではありません。今日の出版では、漢文の()み下し文は、文語にもにもかかはらず現代假名遣󠄁で表記して、心ある人々の顰蹙(ひんしゅく)を買つてゐます。それでも最低、全󠄁文通󠄁して現代假名遣󠄁で統一し、混淆(こんかう)は避󠄁けようとしてゐるやうです。

 問題は、敎育、特に初等敎育で字音假名遣󠄁をいかに扱󠄁へばよいかでせう。私たちはとかく「蝶」を「てふ」と書かせる難しさを問題にしますが、これは順序が逆󠄁であつて、「てふ」の聲はチョオであると讀み聽かせ、音讀させて敎へる「讀み先修」法が、本來、初等敎育の眼目であるべきなのです。これなら難しくない筈で、これはあたかも無理數「π(パイ)」の扱󠄁ひに似てゐませう。π は數學や電氣工學で重要󠄁な定數で、人工衞星の軌道󠄁計算では厖大(ばうだい)な桁數を要󠄁しますが、初等敎育では圓周󠄀率󠄁は3・14と3桁で十分役にたち、πといふ文字さへ敎へる必要󠄁はないとも言へます。しかし、煩はしいからといつてこれを3と略すのは不可です。同じやうに、字音假名遣󠄁は難しいこともありませうが、初等敎育ではルビの音讀ができれば十分と考へてよいのです。敎育は義務敎育に()るばかりではありません。ふだん讀む本や新聞のルビ、かな書きの驛名表示などで正しい假名遣󠄁を絶えず目にすることが重要󠄁であり、社會全󠄁體で正しい表記を傳へる努力がもとめられてゐます。從つて、字音假名遣󠄁の修得は、そのやうな「インフラ(社會的基盤)」のない時代に多少は難しいとはいへ、編󠄁輯者や校󠄁閲者は義務として修得し、文筆家と敎師がこれに續かなければなりません。かうした努力をせず、敎育現場のみに假名遣󠄁敎育を要󠄁求し、巧く行かないと表記そのものを否定するやうでは、國語の正常化󠄁は百年河淸(かせい)()つことになります。

市川 浩󠄁(常任理事)

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