Q4 なぜ「正字」とか「正漢字」などと尊大な言葉をつかうのですか。

   A4 「正字」といふ言葉は、戰後に作られた、新しい漢字といへる當用漢字や常用漢字に對して、出版社や印刷會社が戰前の舊い(舊字の意味で)漢字を「正字」と呼んでゐるもので、「誤字」に對して正しいと言つてゐるわけではありません。現に、十月十一日(平成十五年)の朝日新聞には「パソコンで正字を表示」といふ大見出しがあり、軟や醇を例にあげてゐました。

一 活字文字といつてもそもそもは人が書いたものです

   印刷された明朝漢字は、金屬の活字を使つてゐた時代のイメージからか、固いもの、間違ひなどありやうのない文字だとする潛入觀念が強いやうですが、實際には、コンピュータで使はれるフォントと同樣に、人間がデザインしてから鑄込んで作つた活字によるものです。一種の書家による文字なので、人により形が變るのです。

二 康煕字典にも誤りや字形の違ひが多い

   有名な例は欠字といつて、皇帝の名前をみ避けるためにわざと一畫を缺いた字があることです。〈玄〉を〈今昔文字鏡「玄」〉としてゐますが、これは清代だけの文字で今では誤字です。また〈象〉と〈今昔文字鏡「像」〉、〈〉と〈偏〉などのやうに字形が異つてゐるものもかなりあるので、正字とは言ひかねます。

三 明朝體には誤字や筆畫の誤りが多い

   現在の印刷に一番多く使はれてゐるのは明朝體ですが、よく見ると、正しいとされる〈今昔文字鏡「考」〉に對し、多くは〈考〉となつてゐます。また意匠上の誇張から〈今昔文字鏡「系」〉が〈系〉や〈素〉に、〈今昔文字鏡「以」〉が〈以〉のやうな誇張した書き方で畫數がふえる結果となつてゐます。

四 昔は辭書が少なかつたのです

   江戸時代に庶民文化が花開くまで、辭書は貴重なもので今のやうに誰でも見るわけにはいきませんでした。ふつうは記憶に頼るので當然間違ひが起ります。奈良時代の寫經生は文字を、つまり漢字を間違へるとその分給料から差し引かれたと言ひます。宮廷關係でさへさうなのですから、ほかではもつと誤字が多かつたことが推測されます。誤字がそのまま定着することもありえます。〈今昔文字鏡「用」〉といふ字は、大漢和辭典では本字とされてゐます。〈用〉の誤字で唐代から見られる字ださうです。

五 漢字輸入國では以前にはなかつた文字を作らうとします

   漢字を輸入した近隣諸國では、自分の國だけにある事物、漢字にはない事象などには、新しい文字を作つて對應してゐます。日本の國字がさうですし、朝鮮半島にも越南(ヴェトナム)にも國字があります。大陸支那の漢字に澤、驛はあつても沢、駅はないさうですし、他にも日本で作られた漢字まがひの文字がたくさんあることは周知のことです。臺灣では風俗として、子供に、意味は同じでも他人とは違ふ字形の文字で名付けようとしますし、書家は一つの畫面で同じ形の字は書きたがりません。これらは誤字といふより異體字、異形字です。鵝鳥の〈鵝〉は日本工業規格(JIS)でも〈鵞〉と二つありますし、大漢和辭典には、さらに〈今昔文字鏡「鵝」〉〈今昔文字鏡「鵝」〉と全部で四つもあり、我々が振り囘されてゐる感じです。

六 略字、俗字は人前に出さないもの

   畫數の多い漢字は書くのが面倒なので、歴史上かなり古くから字畫を簡略にした略字や、形の崩れた俗字が用ゐられてきました。寫本や草稿に多いもので、質のよい書籍には用ゐないとされてゐたものです。つまり正式ではない文字なので、人前では使はないとされてゐました。それが當用漢字や常用漢字になつて、舊字體に對する新字體として數多く現れたのです。しかし「年齡何歳」を「年令何才」と書くのは今でも正式ではありません。「才末助け合ひ」なら誰が寄付をするものですか。その〈今昔文字鏡「歳」〉にしても、歩くの意味が含まれてゐるものを、何故意味不明の〈歳〉に替へなくてはならなかつたのか、あきれたとしか言へません。

七 正字と呼んでよいのです

   「新字体」と呼んだのはおそらく、〈歩←今昔文字鏡「歩」〉〈渉←今昔文字鏡「渉」〉〈巻←卷〉などといつた、畫數をわざわざ一畫多くした誤字を作つてしまつたから、その事實に蓋をするためだと勘ぐらざるをえません。となれば、冒頭に述べたように「舊字體」を「正字」ないし「本字」と呼んでも差し支へない、いや、前々からの慣用であるだけに、さう呼んでよい根據があると考へられます。

   なほこれは餘談ですが、康煕字典の誤字を指摘して命を召された學者が何人もゐるやうに、文字や言葉を時の權力や官僚が統制しようとすることは活溌な論議を抑へ、文化を沈滯させます。勞多くして實りの少ないこのやうな字源探索や字體確定の仕事は民間の努力と自然の成り行きに任せるべきです。この稿は元大東文化大學教授原田種成先生の啓蒙書によるところが多いのですが、原田先生や、また幼少期の漢字教育に絶ゆまず務められ劃期的業績を擧げられてゐる石井勳先生のやうな、情熱あふれる民間學者の輩出を望んでやみません。

谷田貝常夫 (常任理事)   




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