「敬語の指針」に關する意見

文化庁次長

        加茂川幸夫様

「敬語の指針」に關する意見

平成十八年十一月三十日                
國語問題協議會 會長  小田村四郎
副會長      林    巨樹
副會長  小堀桂一郎

先に公表された「敬語の指針(たたき台)」につき、當會に意見を徴せられたこと幸ひにぞんじ、また感謝申し上げます。 

敬語はもとより大きな問題であつて今後も汎く議論されるべきものと思ひますが、ここでは氣づいたことをほぼ二點に絞つて申しあげます。よろしくご考量のほどお願ひ申しあげます。

謙譲語Tについて

「指針」第2章第1の2(十一頁)に謙譲語Tの定義が示されてゐます。それによると、「伺う」「申しあげる」等の表現は、「自分側から」のものだとされてゐます。しかしもちろん「伺う」「申しあげる」ほかは「自分側から」のものとは決まってをらず、相手側だらうが第三者だらうが全く構ひません。「自分側から」のものである「こともある」のに過ぎず、そのことは、「解説5・行為者について」(十三頁)にも明記されてゐる通りです。

とすれば、十一頁の定義は甚だ不十分だと言ふべきであり、この定義では間違ひと言ってもいいものとなります。

行爲者は誰であっても、その行爲・ものごとが「立てられる人物」に向かふものであればいいのですから、ここは單純に、

「下位者から上位者に向かふ行爲・ものごとについて使ふ」

とすれば十分かと思はれます。(ただし、昭和二十七年「これからの敬語」、また平成十二年「現代社会における敬意表現」の流れから、當面「上位者・下位者」「上下關係」といふ概念を排除する必要があるとすれば、「立てる側から立てられる側に向かふ行爲・ものごとについて使ふ」と言ひ換へることができます。このやうにすれば、自分も相手も第三者も全て含めることができ、無用の混亂は防ぐことができると思ひます。)

次に謙譲語Tの[解説5](十三頁)についてですが、ここには

B 田中君が先生のところに伺ったそうですね

といふ例文があって、次のやうな記述がなされてゐます。

このように、相手側や第三者の行為であっても、その行為の「向かう先」が「立てるべき人物」であって、かつ行為者が「向かう先」に比べれば「立てなくても失礼に当たらない人物」である、という条件を満たす場合に限っては、謙譲語Tを使うことができる。

例文では「立てられる人物」として「先生」が使はれ、發言者から見て上位であること以外の場合は考慮されてゐないやうです。また行爲者としては同等以下の人物しか考慮されてゐません。しかしこれは事實に反してゐます。

行爲の「向かう先」が發言者より下位者であることはありますし(ここでは理解を容易ならしめるため「上位・下位」といふ言葉を使ひます)、また行爲者が發言者よりも上位者であることもあるのです。

まづ第一點ですが、例へば校長先生が兒童に、

(1)「擔任の先生には申し上げたの?」

と言った場合、「向かふ先」つまり「擔任の先生」は、發言者から見て下位者です。

また客が店員に、

(2)「娘からすでに申し上げてあるはずだが、どうしたのかね」

と言った場合も同様です。

つまり、謙譲語といふのは、「發言者が誰かを上に立てる」といふものではなく、「發言者が、誰かと誰かの間の上下關係をとらへる」といふ働きのものです。右の(2)の例で言へば、客から見て店員は當然下位者だが、自分の娘との上下關係においては上位者である、と客が捉へてゐるために「娘から申し上げてある」といふ表現が生まれたものです。つまり「向かふ先」「立てられる人物」なるものは、發言者の下位者であることはいくらでもあるのです。もしこれを否定するとなれば、ここにわれわれが擧げた例文(1)(2)は誤用であるとしなければなりませんが、そのやうなことは當然不可能です。

また第二點ですが、[解説5]には、「行為者が『向かう先』に比べれば『立てなくても失礼に当たらない人物』である、という条件を満たす場合に限って」謙譲語Tが使へるとありますが、實は、行爲者が發言者より目上であることはあります。

(3)「先生は昨日殿下にお目にかかっていろいろお話なさったんださうだね」

と例へば友人に語った場合、「先生がお目にかかる」といふ謙譲語による表現は全く正當に成り立ってゐます。

つまり、[解説5]の解説は遺憾ながら誤りと言ふしかありません。

もし、この[解説5]を通すとすれば、われわれの擧げた例文?は「誤用」「誤文」であるとしなければなりませんが、もちろんそんなことは不可能です。

そこで私たちは、謙譲語といふものを單純に「上下關係」といふ用語で捉へて、

 「話題に現れた人物同士の間の上下關係を捉へて表現するもの」

と定義してゐます。ついでながらこの「上下」といふ言葉は身分固定的なものではなく、具體的場面によって自在に變動するものであることは言ふまでもありません。文化廳では「上下」といふ用語は厳格に排除してゐるわけですが、ただ、「上下關係」とは身分的・階層的・固定的なものではないのだといふことを十分周知させた上でなら、最もわかりやすい用語として復活させたらいいのではないかと考へてゐます。これらの點については本會理事萩野貞樹著『ほんとうの敬語』(PHP新書)ほかに詳細な記述がありますので、參照していただけたら幸ひです。

用語の問題はまた別として、「指針」は謙譲語の理解において大きな不備があると言はざるを得ず、是非再考していただきたくお願ひ申しあげる次第です。

美化語について

今度の案ではまた「美化語」について大きな問題があるやうに考へます。

「案」ではこの美化語については、「お酒」「お料理」「御祝儀」が例として擧げられ、「ものごとを美化して述べる」ものと定義されてゐます。これだけ見るとなるほどさうかとも見えますが、實は大きな問題をはらんでゐます。

美化語といふ概念は、昭和三十年代に辻村敏樹氏によって提唱され、その後多くの學者に受容されてきたものですが、その過程における微調整によって、こんにちではある肥大現象を起してゐるとわれわれは見てゐます。

美化語といった場合、語例としては通常「お米」「お菓子」「ご」「お茶」「お箸」などがまづ擧げられます。これらは、あるものを尊重して敬語の「お」をつけて言ふものであって、もともとは當然「尊敬語」とされてゐました。(一部に丁寧語とする捉へ方もあって、「指針」もその立場のやうだが((「指針」第2章第1の「付」))、今はその問題には觸れない)。

ところがその後「美化語」について強調されるやうになったのは、「自分の言葉を飾るもの」といふ點でした。

いくつか「定義」の例をあげてみませう。

これでわかるやうに、お酒、お茶、お米、ご、おにぎりの類は、けっして酒や米やなどを尊重して敬意をもって表現したものではない、とするのが、過去の文化廳を含めて多くの研究者の強調するところとなってゐます。ただただ自分自身の言葉を上品らしく見せるためのものであって、食べ物などへの尊重の念は一切含まれないとするのが美化語の考へ方です。

しかし私たち普通の日本人にとっては、尊重の念がないといふのは想像もつかないことです。私たちは、お米、ご、お酒といったものは、感謝と敬意をもってありがたくいただいてゐます。まづは父母の恩、お百姓さんへの感謝を初めとして、社會の流通機構や天地自然の惠み、~佛の加護、かうしたものがあって初めて米や酒、茶などが口に入るのだといふ思ひは、私たちに通有のものではないでせうか。美化語の説はそれを完全に否定するわけです。

言ひ換へれば、天地の惠みやお百姓さんや、また父母ほかを尊び高めて「お米」「ご」「お酒」などと發言するのは敬語法上の「誤り」であるから言ってはならない、とするのが美化語の説といふことになります。もちろん説を立てる人たちは、「お米」「ご」、また「御祝儀」と口に出しながら、米や、祝儀などに一點の敬意も感謝も抱かないのでせう。

「指針」はこれらの學説を否定した上での提言とは見えません。美化語の[解説](十七頁)を見ても、在來の定義をそのまま採用したもののやうです。

これは、日本語を使ふ日本人の常識ではないのではないでせうか。外國の人だって感覺はわれわれと同じだらうと思ひます。米や、酒、祝儀の類はありがたく尊いものとして感謝の念を持ち尊ぶといふところからこれらの語はもともと尊敬語と分類されてきました。私たちはその立場に立ちますし、これが當會の特殊な思想だとはとても思へません。

「指針」は當然ヘ育の場でも「指針」とされるものでせうが、兒童・生徒・學生に、米・・酒・茶・菓子・水その他に對して尊重の念を持つことを禁ずるがごとき指導は爲されてはならないと私たちは考へます。

右に述べたやうに、少なくともこの謙讓語と美化語の二點については、どうかご再考のほど心からお願ひ申しあげます。

以  上


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