「新常用漢字表(假稱)」に關する試案)に對する國語問題協議會の意見

平成二十一年四月十日 國語問題協議會 會長 小田村 四郎

表題について當會に意見を徴せられたことを幸ひに存じ、設立以來五十年に亙る變はることなき主張を申し述べます。

   一、國語は行政施策の對象ではない

 

當會は、漢字使用が寔に便利であるため、過度に漢字に頼らうとしたことが大きな弊害となつてゐたことは充分に認めてをり、新聞その他、實用の面でその言語使用主體が自主的に漢字を制限することには反對して來ませんでした。朝日新聞がその使用漢字をふやしたり、字體を康煕字典體に戻したり等の變更を文部科學省の方針とは關係なく行つてきたのは、その面からいつて示唆的です。 しかし當會は、流動して止まない言語は、時機を失しがちな上に、責任の所在が明確でない行政府の施策の對象とすべきではないと主張して來ました。昭和二十一年の「當用漢字」が表外字の使用を禁止したことで、大きな弊害をもたらして來たことは周知の通りで、その反省に立つたはずの現行「常用漢字」において、「目安」とされてゐたものが、「改訂」で文字、音訓を殖やすことにより却つて制限的要素を色濃くしてゐることに憂慮してゐます。結果として、再び「訓令」へと國語が「許認可」行政の對象となつてしまふことは何としても避けねばなりません。 文部科學省の一連の國語の表記に對する方針の例としては次のごときものがあります。假稱新常用漢字表(以下「改訂」)では「奈」を追加し、また「良」の訓として「ら」を認めてゐます。理由は「なら」を「奈良」と書いても訓んでもよいとすることのやうですが、一般國民は役所が「奈」や「良」の訓「ら」を認めようと認めまいと、奈良は「なら」で今までも、これからも何の不自由もありません。なぜ態々このやうな「改訂」をするのか理解できません。 そもそも昭和五十六年告示の現行常用漢字表前書き第三項には「この表は、固有名詞を對象とするものではない」と明記してあるにも拘らず奈良を今後「奈良」と漢字で書いても、「なら」と訓んでよいといふのは、固有名詞にも常用漢字表の拘束力が及ぶのだと、それとなく明言したことで、「改訂」の意圖に大きな疑問が投げかけられるところです。すでに近年町村合併で新しい地名を審議する際、從來の地名漢字を使はうとすると、「この字は常用漢字に無いから使へない」といふしたり顏の發言者が必ずゐて、結局、實際には讀み難いひらがな地名が蔓延する結果となりました。「改訂」はこの傾向を追認し、前書き第三項を事實上無效化するに等しい。「改訂」ではこれらの使用例として、「奈」には「奈落」、「良」「ら」には「野良」を擧げるのみで、これらの語より遙かに使用頻度が高い「奈良」を何故か掲げてゐない。ところが別に追加の「岡」の例では「岡山、靜岡、福岡縣」、「阜」の例でも「岐阜縣」、同じく「分」の訓「いた」の例では「大分縣」が擧げてある。このあたり、眞の意圖が奈邊にあるか疑はれるところであります。

   二、一國の文字行政の混亂にどう對處するのか

言語、殊に表記に關してコンピュータの高度利用は避けられない時流であることは認めますが、その際、一國全體において行政の方針が分裂状態にあることは、國民にとつて心理的に負擔であり、實務上も不便であり、ひいては心の荒廢をも齎すものと考へます。 一方、人名、地名に關しては他省では別の漢字表が作られ、一國の文字政策としては信じられない程の分裂した現状であることは看過できません。總務省の「住民基本臺帳ネットワークシステム」においては、二萬字以上の漢字表が用意されてをり、元々常用漢字とは別個に人名漢字をふやしてきた法務省では、五萬字以上の「戸籍統一文字」が準備されてゐるといはれてゐます。通商産業省にはJISの漢字表があり、それらに對し文部科學省は無抵抗であるやうに見受けられます。 現今の二十萬字はあらうかと推測されてゐる表記文字、漢字は、本來は文部科學省がその歴史や字源、字義、音聲など十二分に精細なる研究調査をして、その成果を公に發表すべきものであると思ひます。辭書毎に字形も違へば分類も別といつた今の状態を改善しようとすることこそが文化を尊重する文化廳の仕事であり、きちんとした裏付のない漢字でもつて文字統一をしようとしたり制限しようとしたりするのは、方向性が違つてゐるとしか云へません。俺を入れる儂は入れない等々といふ議論に時間を費やすのは、國家行政の基本に位置すべき大切な文字政策にとつては、税金の無駄遣ひであり、あまりにも些末な、無駄な議論といふべきです。

   三、漢字使用を制限すべきではない

  今のところ字形や字體が確定できない漢字は、論理からしても行政が制限することができないはずであり、強制は出來ないものです。一方、今の兒童は、小學校で習ふ前から身の周りやテレビなどからかなりの漢字を理解してゐることは、電車の中などで驛名などをほとんど讀める幼稚園兒がかなりゐることからもわかります。上からの制限とは無關係な現實です。漢字は他の漢字とのネットワークをなしてゐるので、百字も覺えれば三百字くらゐまでは理解できます。多くの小學生が漢字能力檢定試驗のかなりの級まで達してゐる事實を知ると、大の大人が制限された漢字二千字ばかりを守らなくてはならないことが如何に愚かなことか、さう思つてゐる人は想像以上に多くゐます。 以前から當國語問題協議會では、習得すべき漢字の字數制限を無意味なこととしてゐます。一方で何萬字も覺えろとする立場にはありません。第一それほど澤山の漢字を一人の人間が覺えられるはずもありませんし、使ふこともありません。そこで一應の目處として三千二百字程を選んで「基本漢字表」なるものを作り、今も各種檢討を續けてゐます。異體字を含めれば五千字弱です。「當用漢字字體表」は世界で初めて、漢字の點画を國が、つまり上のものが定めたものださうで、始皇帝もなし得なかつたことと聞いてゐます。その折、器や涙、類など犬の點を拔いた奇怪なる異體字も九字ほどできましたが、その手の異體字は含みません。「教養としての漢字」と銘打つたもので、漢字制限をしようとしてゐるわけではありません。 人間がもの考へる時の基礎である言葉の、中でも語彙の減少につながる漢字の字數制限はしてはならないことであり、目處と謳つてはをりながら、制限色の強い常用漢字は廢止されるべきものです。當協議會は終始反對してきましたし、今後も同じ姿勢を貫きます。レッセ・フェール(放任)とまでは言ひませんが、民間の自主性、良心に任せるべきことと信じてゐます。

   以上



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