一教育学者の歩み(四)
石井 勲    

 私は《現代かなづかい》を使はない。それで時々「なぜ使はないのか」と尋ねられる。今回は尋ねられないうちに訳を言ふことにした。明治時代から、言語学者たちは「発音と懸離れた仮名使かなづかひは、発音通りに改めるべきである」といふ理屈を言ひつづけてきた。これは西欧の学者たちが長年言ひつづけてきた理屈で、我国の学者はそれを口移ししてゐるに過ぎない。
 西欧では、学者が時々発音通りの綴りに改めようと画策するが、一般民衆がこれを許さない。我国のやうに従順ではない。綴と発音と最も懸離れてゐるのは仏国フランスであらう。だから、戰後、綴改定案を作った学者たちが議会に提出しようとしたが、囂々がうがうたる非難を浴びて怱々そうそうに案を引込めたといふ。
 我国では大正中頃、文部省が現代かなづかいよりも酷いタロー読本を作った。これはそれを使った宇野精一先生(九三歳)から直接耳にした話である。この時は、国会で、森鴎外が文部省に「タローのーは文字なのか。文字とすれば何と読む字か」と詰問した上「仮字使は伝統を重んずる事が大切」と、懇々と諭されたので、教科書は忽ち旧に復した。
 ところが、敗戟後の混乱時を狙っての現代かなづかい改定は、何の抵抗もなく施行されてしまった。私は田舎でこの改定を知り悔しかった。必ず引繰返してやる、とひとり誓った。高校では生徒たちに「現代かなづかいは認める価値がないので無視する」と宣言し、旧来の仮字使を使ひ、使はせた。
 然し、昭和二十八年小学校に転じ、一年生を担任するに及んで現代かなづかいを使ふやうになったが、「いつか引繰返してやる」と機会を窺ってゐた。二十八年より三年にわたる第一次実験、三十一年より二年間の第二次実験をへて、三十五年から六年間にわたる第三次実験に移ってゐた私は、第一年度の終に近づいた三十六年二月、総じて五、六年生に勝るとも劣らない読書能力をもつ一年生を公開することを計画した。校長の諒解を得、国語審議会の全委員、評論家、マスコミ関係者に案内状を発し、授業の公開と石井方式の説明会を行ったのである。
 この時、私は冒険を試みた。相手は一年生でも、石井方式だから中、高校生の学習しない漢字は勿論、音訓表で削られた漢字を故意に教材の文章に使ったのである。教材の文章は、授業時間の開始を待って、参観者と子供たちと同時に配布し、下読みの余裕を与へずに、挙手させ、指名読みさせたのである。
 その数日後、朝日新聞の学芸欄のトップ記事に、大岡昇平氏の「漢字をばりばり読む小学生」といふ大見出しで始る「それは感動的な光景だった」といふ激賞の一文が掲載された。三日にわたる長文の末尾に「一つ気になった事がある」と言って、教材の文章に《お母さん》といふ禁じられた表記があったことを指摘してゐた。
 朝日は、国語審議会に「なぜ《お母さん》といふ表記を禁じたか」音訓整理の理由を開陳するやう要請した。数日後、会の中心的学者である倉石武四郎博士の回答が掲載された。
 朝日はその上で私に、審議会の音訓整理に従はない理由を述べてほしいと求めてきた。待ちに待った機会である。私は「漢字は濡衣を着てゐる」といふ一文で審議会の音訓説を駁論した。拙著『漢字興国論』(日本教文社刊、現在品切)に詳述したので、ぜひお読み願ひたい。朝日は、石井に対する反論を倉石博士に求めたらしい。数日後に博士の文章が掲載されたが、私の音訓説には一言も触れず、討論から逃げてしまった。
 そんなことがあって、前記拙著に詳述したとほり、半年程後、朝日だけが審議会制定の音訓表や送りがなの付け方を無視した表記を用ひるやうになった。私はこれを知った時、「朝日は偉い」と思った。なぜなら、全国の新聞が審議会の制定した基準に無批判に従ってゐた時に、ひとり毅然としてこれを否定したからである。それから十二年後、審議会が初めて屈して「朝日式表記も正しいと認める」と謝ったのである。
 ところが、偉いと思った朝日新聞社のこの行動は、社の総意から出たものではなく、大勢は他社と同調すべきであるといふのに、只一人の記者が「審議会制定の基準は低劣で基準にならない」と反対し、自ら朝日新聞社独自の基準を制定して示し、反対者とは徹底的に討論し、説得したものであった、というのが真相である。詳細は次回に。




  一教育学者の歩み(五)
石井 勲    

 昭和四十五年、大東文化大学幼少教育研究所が設立され、私は所長になった。このとき所員として私を助けて下さった小谷一郎氏は、早大出身で朝日新聞にずっと勤め通した方である。ソニーの井深社長が幼児開発協会を設立する時、参与として招聘されたので親しくなった。馬が合ひ、小谷さんと話をしてゐると心が和むので、研究所に移ると小谷さんに来て頂いて、色々と智慧を借りたのである。
 ところで、朝日の英断があった昭和三十六年頃は、朝日の用語課長が国語審議会の委員に任命されてゐて、小谷さんはその上の記事審査部長だったらしいと判り、あの朝日の挙は実に立派だったと誉めたところ、小谷さんが実に複雑な顔で、「ふうーん、やっぱり笠(信太郎)さんの考へが正しかったんだなあ。笠さんは偉い人だったんだなあ」と言って、大要次のやうな驚くべき内幕を語ってくれたのである。
 私の審議会批判の記事が掲載され、その批判に返答するやうに求められたのに返答しなかった時から二、三ケ月たった頃、笠信太郎氏が「審議会の基準は低劣だ。こんな物に従って記事を書くのは本社の恥である」と言出し、自ら基準を作って提示したらしい。小谷部長も社の総意も審議会の基準に従ふべきだといふのに、笠さんは一歩も退かない。「笠案に賛成出来ないなら出来ない理由を述べよ。討論しよう。負けたら引込める。然し、正しいと思ふ以上引込む訳に行かない」といふ事で、結局、誰も反論しなかったので、笠案が通ってしまったらしい。
 小谷さんは「僕など、先生の論文を読んでも、審議会の誤りが少しも見えてこないが、笠さんにはそれがスパッと判ったんですなあ」と、頻りに感心していらっしやつた姿が、三十年経った今も、鮮かに眼前に浮ぶ。
 私がこのことを三十年間も胸の奥に秘めておいた訳は、関係者に及ぼす影響が大きいと考へたからである。然し、事件は四十二年前の出来事である。誰にも迷惑が掛ることはあるまい。それにこの事実は、私独の胸に蔵っておいてその侭になって了っては勿体ない。今が公開の好い時機だと思ふ。
 私は、三十六年の事件に続くこの事件で、正義の強さが理解できたし、正義を行ふのに遠慮は禁物だといふことを悟った。それにしても、国語審議会とは名ばかりで、愚にもつかぬ理窟ばかりの言語論を振回す所謂知識人の集合に過ぎないことも知った。
 理窟好きの知識人は、知識はあるが智慧がない。だから、《智慧》は難しいからと言って《知恵》に改めた。知と智の区別が難しいといふ頭の持主が審議会を構成してゐたのだから、世界一易しい国語仮名使かなづかひを改変し、得々としてゐられたのである。
 言葉は、いくつかの音声が一定の順序に繋って作られてゐるが、その繋り方によっては発音しにくいので、発音し易いやうに読む。例へば「おハヤう」は、早をハヨと読む。早はハヤであって、ハヨといふ読方はない。ヤウといふ繋りの時に限って起る一時的現象である。三二五号で述べた《カウ》と全く同じ現象なのである。英語でも、aukオオクauraオオラautオオト など、auアウ は皆オオと読んでゐる事は既に述べた。それは努力して綴と違った読方をしてゐるのではない。自然にオオと言って了ふ。だから、綴を発音に合せる必要がないのである。
 例へば ham and eggs は、普通我々がこの通りに注文したらアメリカでは通じない。しかし、「ハ、マ、ネ」と言ったら通ずる。だが、紙に 「 hamane 」 と書いて渡しても絶対に通じないであらう。また、言葉は、時と、場合と相手によって発音が変るのが自然であることも知っておいて欲しい。
 ここで、送仮字おくりがなについて一言しておく。私は成可なるべく減すやうに努めてゐる。三十六年の朝日の基準では、審議会の「取り締まる」を「取締る」に改めた。その十年程後、審議会の委員達の中から、「取り締まる」よりも「取締る」の方が読易いといふ意見がでて、賛成者が多かったので、「取締る」といふ送仮名も認める、といふ実に奇妙な改訂があった、と記憶してゐる。
 「取締る」は《取る》と《締る》との複合語であるから《取》に《とり》以外読みやうがないのに、審議会は「誤読の恐が有る」と言って「取り締まる」と書くやうに改めた。余程頭の働きの悪い人ばかり集ってゐる集団ですね。これに合せようとしたら、頭が悪くなるのは当然である。



(石井 勳、いしゐ・いさを。本會副會長。日本漢字教育振興協會理事長。初出は月刊誌『母と子の新聞』第三二七號(平成十五年十一月十五日發行)および第三二八號(平成十五年十二月十五日發行)。本掲載に當り、若干手を加へた。轉載を快く許可された梶w母と子の新聞』に感謝します。無斷轉載を禁じます。なほ、『母と子の新聞』の連絡先は、〒161-0035 東京都新宿區中井二丁目二七-四-二○二、電話○三-三九五二-八八一五)

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