石井勲の伝統的仮名使のすすめ

        

  前回で、私は「表音的仮名使は、人の心を堕落だらくさせるものがある」と書きました。これを読んだ知人の一人が「これは一寸大袈裟ちよつとおほげさ過ぎる表現ぢゃあありませんか」と言ったものですから、さう思ふ人の為に、これが決して大袈裟な表現でない訳を付言したいと思ひます。
  そもそも話し言葉といふものは、時代の移り変はりに従って変化して行くものですから、長い間には、元の言葉とはとても同じ言葉だと思へない程の変化をする事があります。日本語にはさういふ大きな変化は見られませんが、外国語には沢山あります。例へば、英語の one といふ言葉を例に、言葉の変化を調べてみませう。現在の英語の綴は、十六世紀に制定されました。つまり、今の英語は十六世紀の言葉の発音に拠って綴られてゐます。だから、oneといふ言葉は、十六世紀には、《オウヌィー》といふ発音の言葉だったと推定されます。その後、"e"イーが発音されなくなって《オウン》となり、次に《ウ》が加はって《ウォウン》となり、次いで《ウァン》といふ現在の発音になったのだと思はれます。
   この様に、発音が変化して行っても、その綴は決して変化の跡を追はず、元の綴をずっと維持して来ましたので、四百年以上も昔の文献が、現代文と同じ様に理解する事が出来るのです。もしも綴が、発音の変化の跡を追って改められてゐたら、十六世紀の文献は、発音する事は出来ても、意味は全く通じない物になってゐたでせう。チョムスキーが伝統的綴を排して表音的綴に改めてゐたら大変だった」と言ってゐたのは、この事を言ったものです。
  英語の綴を覚える事の大変な事は、我々も英語の学習でよく知つてゐます。英米人がこの大変な学習に耐へてゐるのは、十六世紀以降の膨大ばうだいな文献を失ひたくないからです。どこの国でも、学習はこの綴の学習から始めてゐますが、実はこの大変な学習が、学習者に忍耐心の必要な事を悟らせ、困難を克服こくふくする気力を育ててゐるのです。だから、この綴の学習の大変さは、言はば必要悪の様なものと言つてよいでせう。
  独り我が国は、伝統的仮名使を廃して「発音通りに書けばよい」といふ安易な学習を採用した為、「言葉の学習に励む」といふ最も基礎的な学習を努める習慣を失ってしまひました。その上、「言葉の学習をしなくても文章が書ける」といふ特性から、「安易に文章を書く」風が生じ、それと共に低級な書物や雑誌が沢山出回る様になりました。「文章を書く」といふ事は元来大変な事であって、安易に書くべきものではありません。文章は言葉と異なり、消えずに残って多くの人々の目に訴へ、心に呼びかけるものですから、書き手は心をくだいて言葉を選び文字を選んで書くべきもので、文字通り《推敲すいかう》に全霊を傾けるべきものです。昔読んだ『二十一世紀物語』に「文字の安易な使用が社会を腐敗させるので、文字を紙に書く事を禁止する。代って文字は金属にり付ける」とありましたが、文章を書く場合には正に金属に彫り付ける程の時間を掛けて慎重にあたりたいと思ひます。
  最近、些細ささいな事で衝動的な暴力を振ったり、殺人を犯したりする者が増えて来ました。この原因の一つは、文字を初めて学習する時期に「発音通りに書けばよい」という安易な学習に変り、伝統仮名使が使へる様になるまでの地道な学習が無くなった事に関係があると私は思ってゐます。伝統的仮名使を身に着ける為の反復練習は、総ての学習の基礎を為すものであると共に、学習態度、いては人生に処する態度の基礎を形成するのに最も必要なものだと思ひます。その点、珠算しゅざんにおける反復練習は、これに劣らない効果がある様に思はれます。やはり《 読み・書き・算盤そろばん 》です。



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