三浦朱門の『日本語の眞實』(9‐24)

   平成十五年一月、三浦朱門の『日本語の眞實』が出版された。三浦は「私は日本文化の特色、というか、何處に日本があるか判らない、しかし決してその基本設計において、日本的なものが失われることのないという性格を、日本語の姿の中に、もっともよく見いだせそうに思つた」「コトバについては、形態としても、またそれを使用する人が態度として、あまりにも嚴密な・規制・を行うと、新しい事態に即應することができにくくなる。だからコトバをあまり神聖視したり、古い形式を尊重しすぎないのがよいのかもしれない」と穩當な姿勢を示し、次いで日本語の表記について・平假名・、・片假名・の間に置くと、漢字はよく目立つ。しかも一つの文字で的確に、豐富な意味を示すことができる」「私たちは漢字と假名のまじった文章を、ほとんど漢字を頼りに流し讀みをすることができる。いちいち假名を讀んでいるのではない。假名の存在によって、つまり日本語の文法にしたがって、排列されている漢字をながめることによって、文章の流れをほぼ正確につかんでゆくことができる」と速讀に適することを述べてゐる。  また「日本語が論理的な面を發達させてきた言語か、文學的方面を伸ばしてきた言語か、ということになると、日本語はまさしく文學的な言語であろう。そして、文學が美しい表現をその目的の一つとする限り、日本語は美しい言語、少くとも美しさをめざす言語ということができよう。事實、千年をこえた昔の文學作品が、今日でも人々に強い感銘を與え、學校ばかりでなく、日常生活の中で、生きた作品として存在している國はまずないであろう」「日本語はその・柔軟性・によって、世界でも・希な・、さまざまの文化を受容し、それについての思考も、表現も可能になった、きわめて便利な言語ではないか、と思っている」が、「日本語の便利さは日本人を言語的鎖國状態にしてしまう恐れがあるのかもしれない」と危惧してゐる。