林秀彦の『失われた日本語、失われた日本』(9‐23)

   平成十四年十月、林秀彦の『失われた日本語、失われた日本』が出版された。「自分が言葉が好きで好きでたまらない少年」であり、言葉は「最大で、最高のマジックである」と氣づいたと言ふ林は「人を生かすも殺すも、言葉しだいなのです。これほどパワーのある手品もほかにないでしょう」と述べ、「日本の社會では、言葉は武器としてではなく、藝術(ウタ)として、美として生まれ發達したのです」「日本語は一つ一つの言葉に含蓄が豐かであり、味が深く、耳とココロにやさしく柔軟で、限りなく情操をかきたて、精神的な創造性と想像性に働きかけ、人間の質を高めるのです」が、その言葉が「今、ほとんど全滅してしまっています」「日本語が失われることに比例して日本人らしさが失われているということは、いかに日本人の素晴しい能力が國語機能と密接な關係にあったかという、逆算的な證明にもなるのです」と訴へ、島崎藤村の「椰子の實」の詩について、
 *故郷は「ふるさと」と讀めましたか? 生やは「おいや」と讀みます。孤身と書いて「ひとりみ」です。「浮寢の旅」の内容を實感できますか? 「あつれば」は「當てれば」の意味です。「流離」の意味がわかりますか? そして「滾り落つ異郷の涙」の意味を完全に把握できますか?
 と問ひかけ、「私に言わせれば、藤村の詩一つ暗誦できずに死ぬなんて、せっかく日本人として生まれてきた幸運をドブに捨て、いくら臍(ほぞ)を噛んでも噛み切れないほどの痛恨事を人生に殘すことになるのですが、もう生まれたときから豚の糞よりも汚らしい日本語を垂れながしているテレビに毒され續けてきた世代は、はなから美しい日本語など知らぬが佛で終わるのかもしれません」「今日の若者は日本人であることに半分の恩惠も受けていないのです。それもひとえに日本語を知らないからです。若者たちは國語の持っていた『味』に對し、あまりにも不感症であり、鈍感になってしまっています」と溜息を漏してゐる。林の文章から感じられるのは、何よりも言葉を愛し、國語を愛してゐるといふことであり、その國語が衰弱しつつあるといふ「歎息」である。日本人なら、この異郷にある脚本家の「歎息」を眞劍に受止めるべきであらう。