鈴木義里の『日本語のできない日本人』(9‐18)

 平成十四年三月、鈴木義里の『日本語のできない日本人』が出版された。鈴木は「學級崩壞から學校崩壞、そして教育崩壞へと向かう流れは、もはや誰にも止められないようにさえ見える」「今や、日本の子どもは世界でも有數の『勉強嫌い』になっているということは、動かしがたい事實のようだ」として、主として高校生の現状を具體的に述べ「これまで信じられてきた、普通の日本人ならだれでも新聞を讀む程度の『國語力』があるという常識が、今や音を立てて崩れていくように見える」と言ふ。ただ、さうした現状に對して「私は『國語』神話が瓦解しても一向にかまいはしないし、從來の『麗しい日本文化』が壞れていくと嘆いているのではない。むしろ、その神話崩壞の後にくる、新しい日本語のあり方に期待を寄せたいと考えている。特權的な『國語』が崩れ去り、多くの言語の中の一つとしての日本語に將來の展望があると信じている」と書いてゐる。期待するのは結構だが、國語が崩壞した後に何が殘るといふのか。何の保證もないではないか。

 また「現在進行している漢字の運用能力の低下は、確かに相當悲慘なところまで來ていると思われる」と言ひながら、鈴木は教育の方法を工夫することで克服しようとはせず、「大量の漢字の習得を強いることによって消化不良を起こしているのだから、むしろ、量を制限して、それを徹底的に消化するべ努力することが大切だろう」と漢字制限の主張になつてゐる。が、どこまで漢字を減らせばいいのか。漢字を減らすことは言葉を減らすことであり、言葉を減らせば思考が貧弱になる。それに、漢字を制限したからといつて、漢字の運用能力が向上するとは思へない。更に鈴木は假名遣の改變について「歴史的假名遣いに比べれば、話し言葉との距離が非常に縮っていることは間違いない。實際の發音と文字表記は、完全には一致させられないとしても、できるだけ近い方が使いやすいことはまちがいない」と言ふが、見當外れであり、假名遣とは何かを勉強し直す必要があらう。

 日本語の亂れについての意識調査で、非難されてゐる若者自身が「日本語は亂れてゐる」と答へてゐることに對して、鈴木は「若者たちは大人が亂れていると言うから亂れている氣になっているだけ」で「若者の言葉は亂れているのではなく、そういう種類の新しい言葉なのであり、亂れているというのは年寄りたちの勝手な見方に他ならない」と言ふが、若者の中にも自分達が使つてゐる言葉が決して正しくも美しくもなく、をかしいことを自覺してゐる者が相當數ゐるといふことである。また若者が「脆弱」を「きじゃく」と言ひ、「火に油を注ぐ」を「火に水を注ぐ」と言ふのも「新しい言葉」だと言ふなら、ただ呆れて口を噤むしかない。なほ、妄言思はれるものを拾ふと、鈴木は「カタカナやローマ字のことばを外來のことばだから排除せよというのなら、漢字こそが古代から日本語を侵食してきた元凶であるともいえるはずだ」「文字は言語にとって本質的なものではないというのは、言語學の常識である」「『美しい日本語』というのはウソだ。ウソと言って語弊があるなら、幻想である」と漢字嫌惡、文字輕視、美意識缺如の言を弄してゐる。