『國語表現のひずみ』の出版(9‐14)

平成十一年九月、千葉貢・唐戸民雄・河内昭浩の『國語表現のひずみ』が出版された。第一章の「古人の英知が私たちの使用している漢字や假名、そして文字遣いに託され息づいているという事實を尊重すべきではないでしょうか。洗煉されてきた過去は今日へと繼承されており、過去を繙き顯彰することがどうして明日を生きる妨げになりましょう。今日の私たちは何事をも不便だ、面倒くさいとして、もっと便利に、もっと簡略化して、などという欲求を滿たすべき合理化への改變が、進歩や發展だと豪語するのはむしろ傲慢な價値觀であり、強迫觀念であると思わずにはいられません」「古典の喪失や國語力の低下は、個人的な地力の衰弱と精神の貧困をもたらし、國語の讀み書きに伴うもの事の理解力や表現力はもとより、生き拔く力をも低下させ精神的にも脆弱に至らしめるのです」といふ記述は首肯できるが、第二章の「敬語の使い方を誤ろうと、ら拔き言葉であろうとなかろうと、ほとんど何の滯りもなく、コミュニケーションはなされています」といふ判斷には首肯できない。敬語の使ひ方を間違へば相手に不快な思ひをさせ、人間關係がうまく行かなくなり、意思の疏通も覺束なくならう。

國語審議會は平成十二年九月、常用漢字表にない千二十二字の表外字について、印刷する際の標準となる字體表を公表、十二月に文部大臣に答申した。急速なワープロの普及に伴ひ、表外字の略字が採り入れられ混亂を來したため、國語審議會として、例へば「鴎、鹸、噛」等十二の略字、更に「⻌」「⺭」「飠」の三部首に屬する略字を認めることにしたもので、「印刷文化の實態を最優先し、現状を混亂させない」方針で決めたといふことだが、表外字の略字化に御墨付を與へるもので是認しがたい。かうした混亂の原因は昭和二十四年の安易な字體改變にあるのだから、印刷文字はすべて正字體とし、略字は書寫に限るべきである。

右と同時に答申された「現代社會における敬意表現」は、第一委員會の井手祥子主査の説明によれば「答申には上下という言葉は一切出てきません。意識的に消すことができた」といふことだが、餘計な配慮といふものであり、人間を上下の關係で見るのは非民主的だといふ根據のない通念に捉はれた「ごまかし」に過ぎない。

平成十三年二月十五日の朝日新聞は「國語審議會物語」の第一囘で、北海道の乙部中學校の生徒が黒板に「薔薇、林檎、憂鬱、葡萄」等の文字を次々に書いて見せたと報じ、澤井正夫教諭の「難しければ難しいほど、子どもたちは燃えるんです」といふ言葉を紹介してゐる。兒童生徒の能力を見縊り、粥ばかり與へて來た戰後教育に見直しを促す一言ではないか。教育の仕方を工夫すれば、漢字は難しくなく、樂しく學べることを示唆するものである。また翌二月十六日、國語問題協議會誕生以後の國語審議會の歴史を辿り、「現代假名遣い」の告示により「これで一應決着がつけられたことになる」と書いてゐるが、決着などついてゐない。假名遣の本質をぼかしただけである。