遠藤織枝の日本語觀(9−4)
 
 遠藤もまた、日本語の國際化を當然のこととして願つてをり、そのために、外國人に親しみにくいもの、外國人に理解しにくいものを日本語の缺陷と考へ「必要な手術を施すべきだ」と言ふ。が、日本語に手術を施す前に、外國人に親しみ易く理解し易い教育法を工夫すべきではないか。質の高い日本語教師を育成すべきではないか。外國人に日本語を教へるのは難しいが、それは日本語に限つたことではない。日本人が日本語を學ぶことだつて決して易しくはない。一つの言語を修得することは誰にとつても困難である。長い歴史を有する言語ならなほさらであり、困難があるからこそ學ぶ喜びも大きいと言へるのではないか。外國人に女性言葉や敬語を教へ、理解して貰へないからといつて、女性言葉や敬語そのものを惡く言ひ、廢止すべきだといふのは逆立した議論である。
 遠藤は「私が日本語教師になって、一番困ったのは、若い既婚の外國人學生にその配偶者を『主人』とか『家内』とか呼ばせることでした」と書いてゐる。何故、わざわざ「主人」とか「家内」と呼ばせるのか。配偶者を表す言葉は澤山あり、日本人でも決して一定してゐない。確かに「主人」「家内」と言ふ人が多いかも知れないが、「夫、亭主、内の人、宿六」「妻、女房、山の神」とも、近頃は「ハズ」「ワイフ」とも言つてゐる。若い既婚者に相應しくないと思ふなら「主人」「家内」を強ひることはない。「夫」「妻」でいいではないか。「主人」と言つても夫を馬鹿にしてゐることもあり、「宿六」と言つても夫を蔑んでゐるとは限らない。

 また遠藤は「日本語に殘る差別性、何でも男や夫や父が先という語の作り方、責任主體をぼかす表現、こういつたものは、日本文化の反映であるとしていつまでもいばっていられるものではありません。國際理解を妨げるばかりです」と言ふ。なるほど、日本語では「男女、夫妻、父母」と言ひ、「女男、妻夫、母父」とは言はないが、今更「女男、妻夫、母父」に改めても何の意味もない。人々の意識が變れば「男女」でも「女男」でもいいのである。男が偉いから、女が劣つてゐるからといふことではない。どちらを先にするかは習慣に過ぎない。「犬猿の仲」「紅白歌合戰」と言ふ時、猿よりも犬を尊び、白より紅を上に見てゐるわけではない。外國人の日本語教育は緒についたばかりである。樣々な困難が伴ふのは當り前である。文化の違ひが妨げになることもあらう。だからといつて、教育の便宜のために日本語をいぢるのではなく、教育方法の創意工夫に目を向けて貰ひたい。

 同じ讀賣新聞の同年同月の十一日、井上英明は外國の大學で教へた十一年間の經驗に基き「國語とニホンゴの間で」と題して、「國語と國文學を日本人自らがニホンゴ・ニホンブンガクにして、外國人にも分かるように人工的に改ざんすることが國際化につながるなどと考えるのは、限りなく妄想に近づく一種の合理主義である。同時にそのことは、日本文化や日本人の生活樣式の否定になりかねないのである」と正論を述べてゐる。