『鏡のなかの日本語』と『日本語を外から見れば』(9‐1)

 平成元年三月四日の毎日新聞によれば、行政で頻繁に使はれてゐる和製英語について、小泉純一郎厚相が「これじゃあ、ぼくにも分からん。福祉を擔當する役所なんだから、老人にも理解できる美しい日本語を使いなさい」と一喝したことから、厚生省は和製英語の自肅を始めたという。他の官廳でも、目に餘る和製英語の撲滅に眞劍に取組むべきである。
 平成元年三月、坂部恵の『鏡のなかの日本語』が出版された。坂部は「ことばというのは單なる傳達の道具ではなくて、むしろそれ自體がひとつの生き物であり、そのなかにわれわれが住み込んでいるもの」で、言葉は「世界を寫す鏡であって、それぞれのことばを鏡として、われわれは世界を理解し、世界と付き合い、世界のなかで生きるわけです。同時にまた、今度は、異文化を合わせ鏡にして寫してみたとき、日本語なり日本文化なりの姿、自分の鏡、單數の鏡のなかだけに浸りきっているだけでは見えない姿が見えてくる」といふ思ひから、漢語や外來語を排除するわけではないが、「明治以後あわただしくつくられた翻譯語の多くのものは、日本語の日常用語としてはまったく通用していない」として、「一段低いことばと見られてきたやまとことばを救い出してやることを、自分の仕事としてはむしろ意識的にやってきたわけです」と言ふ。そして、「ますらをぶり」より「明治以後の日本文化が置き忘れてきた」「たをやめぶり」に「一貫して、ある共感を感じ」て、「ふれる」「もどき」「かなし」「ゆかし」などの言葉を取上げ、日本語の特質と可能性、日本文化の在り方、日本人の思考の深層に光を當てようとしてゐる。
 
 同平成元年、板坂元の『日本語を外から見れば』が出版された。板坂は「當用漢字けっこう、表音化もさしつかえない、男女が同じことばを離すことも大歡迎である。しかし、そういうことと立派なことばを語り書く努力を積むこととは別な問題である」とし、「近ごろの若い作家など粗雜な文を書いて恬然としているが、もう少し廣告の鋭い音象徴でも學んでほしいものだ。少くとも勉強して薄汚れたももひきのような文だけは書かないようにすべきである」と注文をつけ、「もっとも不愉快なのはマスコミの司會屋、放送局はよくもあんなゴロツキの首を揃へたものだと嘆きたくなるほど無禮不作法である。大人げないと思いながらも、腹が立つのは私だけではあるまい。ああいうのは口輕ではなく、足輕である。敬語の使い方くらい教え込んだらどうだろう」と述べてゐる。