野元菊雄の「簡約日本語」(八の56)

  昭和六十三年三月二十六日の朝日新聞に掲載された野元菊雄の「簡約日本語」についての記事を見た時、筆舌に盡しがたい憤りを覺えた。このやうな構想を本氣で思案してゐる學者がゐようとは呆れて言葉が出ない。しかも、國立國語研究所所長として、國費を使つて三年がかりで外國人のための「簡約日本語」といふ日本語のまがひものを人工的に作らうといふのだから、開いた口が塞がらない。この際國費のことは言ふまい。問題は「簡約日本語」の中身である。

  大修館の『日本語百科大事典』の「まえがき」によれば、國立國語研究所が「日本語の國際化を考えて、外國人に學びやすい新しい日本語文法を考案しよう」としたもので、その紹介文には「國際共通語としての日本語を世界にもっと普及させるためには、日本語のむずかしい點を取り拂い、エッセンスとしての日本語を創り出す必要がある。これにより、日本語は非常に習いやすいものとなる。このような人工的にやさしく覺えやすくした日本語を『簡約日本語』と名付ける」とあり、「動詞・形容詞はいわゆる音便形でない連用形から出發し、それだけでしばらくは、動詞は『ます』に、形容詞は『あり』を介して『ます』に續け、活用は『ます』と『です』だけで使う。そのあと實際に多く使われる活用形から一つずつ増やしていくようにする」とある。これだけでは、具體的にどのやうなものなのか分らない。幸ひ野元自身が「北風と太陽」の話を「簡約日本語」に直した例文があるので、その一節を左に示す。

 [原文]まず北風が強く吹き始めた。しかし北風が強く吹けば吹くほど、旅人はマントにくるまるのだった。遂に北風は、彼からマントを脱がせるのをあきらめた。
[簡約日本語]まず北の風が強く吹き始めました。しかし北の風が強く吹きますと吹きますほど、旅行をします人は、上に着ますものを強く體につけました。とうとう北の風は彼から上に着ますものを脱ぎさせますことをやめませんとなりませんでした。

  これは日本語とは言へない。「吹きますと吹きますほど」「脱ぎさせますこと」「やめませんとなりませんでした」のどこが「簡約」なのか。簡約どころか、冗長にしただけではないか。易しいとも覺えやすいとも思へない。こんな日本語を書いたり話したりしたら笑はれるだけだらう。マントと「上に着ますもの」とは同じではない。「脱ぎさせます」は文法的に誤りである。使役の助動詞の「せる」「させる」はどちらも動詞の未然形につき、「脱ぐ」なら「脱がせる」でなければならない。連用形に無理につけて「脱ぎさせます、讀みさせます、飮みさせます」とするのが「新しい日本語文法」だとは恐れ入る。文法破壞、日本語破壞以外の何物でもない。

  しかも、野元によれば、これは第一段階であり、次の段階では「吹きますと吹きますほど」は「吹くと吹くほど」に、「脱ぎさせますこと」は「脱ぎさせること」に、「上に着ますもの」は「上に着ていますもの」に修正され、最終の第五段階では普通の日本語を教へることになるので問題はないと言ふが、とんでもないことだ。野元は言語文字の學習について思ひ違ひをしてゐる。初めから正しい日本語を教へれば手數がかからないのに、初めにわざわざをかしな日本語を教へ、次の段階で少し修正した、やはりをかしな日本語に改めさせ、第五段階で漸く正常な日本語に辿り着くといふ苛酷な學習法に耐へられる人が果してゐるだらうか。一つの正しい言葉を覺える前に、將來何の役にも立たぬをかしな言葉をいくつも學習させられるのではやりきれまい。一度間違つて覺えた言葉を訂正するのは容易ではない。大變な勞力を要する。それを何度も繰返すのは苦痛でしかない。何故初めから正しい言葉で教へてくれなかつたのかと不滿を抱くに違ひない。

野元は各段階毎に「そこまでに習ったことで一應何かが言えるというようなものにしたい」から「途中で挫折しても何とかなるんだということを、學習の最初に教えておく必要があります」といふのだが、話はむしろ逆ではないか。正しい日本語を教へてあれば、途中で挫折しても、それなりに通用するし、折を見てどこからでも、どこにゐても再び日本語の學習を續けることが出來、前の學習が無駄にはならない。ところが、をかしな日本語を教へられ、途中で挫折したら、日本人なら誰一人話したり書いたりしないをかしな日本語を使つて笑はれるだけでなく、後の學習の妨げになる。第一段階の日本語に習熟すればするほど、その弊害は大きく、救ひがたいことにならう。