小堀桂一郎の『戰後思想の超克』(八の50)

 昭和五十八年十二月、小堀桂一郎の『戰後思想の超克』が出版された。小堀は「西洋でまだイギリス人、フランス人、ドイツ人といつた國民が分化せず、その國語もまだ成立してゐなかつた、西暦紀元八世紀といふ段階に於て、日本人が既に『古事記』『日本書紀』といふ自分たちの民族の歴史書を持ち、『萬葉集』といふ自らの國語による詩歌の集を作り上げてゐたことが我々の注目を惹きます。續く次の世紀、第九世紀の半ばには最初の散文の物語たる『竹取物語』が成立し、以後およそ五十年ごとにその半世紀を代表して、『伊勢物語』『宇津保物語』『源氏物語』『濱松中納言物語』『狹衣物語』などが誕生して、日本の第十・十一世紀はさながら『創作物語の世紀』が二期續く、といつた觀を呈するのですが、これは世界文學史のどこを丹念に探してもどこにも類例の見當らない、日本以外に例のない事蹟であつて、ロシアの學者ニコライ・コンラドによれば、これは端的に『世界史の謎』なのです」と、日本の古典の豐富さを稱揚してゐる。

 また、小堀は「思想は言葉を以て表現された時初めて形を得ます。言葉にならない思想は、漠然たる感じや、腦裏に思ひ描いた映像ではあつても、まだ思想とは言へない」「我々は皆日本語を以て物を考へるのですから、國語力は即ち思考力だといふことになります」と國語の重要なことに觸れ、「戰後の無法な國語改革、といふのは一部無學で低級な文部官僚による國語破壞の策謀にすぎなかつたのですが、『現代かなづかい』といふ暴力的な規則を國語表記の中に持ちこみ、結果として五十音圖の意義・役割を甚だしく輕視するやうに仕向けてしまひました。現今しきりに慨歎されてゐる國語の亂れを正すにはまづ五十音圖の正しい認識と活用が不可缺であります」と述べ、「現代かなづかい」は「全く無益に、個々の詞の持つ語原や由來への記憶を破壞してしまつた」極めて不合理なものだと批判してゐる。

 なほ、小堀は「再考・現代假名遣」(『文化會議』昭和六十一年六月)において、假名遣の歴史を辿つた後「新たに發生してきた發音に合せてその綴りを變化させるとしたら、その語にまつはる歴史的記憶が消え失せ、その語の語原が見失はれてしまふ」「音韻文字といへどもこれを表音主義的に用ゐることは文化の醇熟と深化に寄與する所以ではない。語原的・歴史的綴字法を保存して古典文化との繋りを絶えず記憶に呼び戻す樣に仕組んでおいた方が國民精神の血の循環の爲に、健康刷新の爲に有益なのではないか」と述べてゐる。