井上ひさしの『日本語文法』(八の44)

  昭和五十六年三月、井上ひさしの私家版『日本語文法』が出版された。昭和二十七年五月に國語審議會から文部大臣に建議された「これからの敬語」が「人をさすことば」として「わたし」と「あなた」を標準の形としてゐることにつき、井上は「これは日本語の、身分のちがいや性別の關係、親疎や好惡の感情などによって表現がいちじるしく異ってくるという、いわゆる待遇表現をまるで勘定に入れていない呑氣至極な建議であった」「こういったことをまったく考えに入れずに、このような呑氣な建議を行うなぞ、呆れが宙返りして後樂園に輕業を出さアというやつ、その無知な腦天氣ぶりはもう表彰ものである」と嚴しく批判してゐる。また漢字は數も多く形も複雜で學習の負擔が大き過ぎるといふ議論に對して「漢字制限論者や撤廢論者たちの*十八番(おはこ)で、これまでわたしたちは耳に*胼胝(たこ)ができるほど聞かされてきた臺詞だが、じつはこれぐらい馬鹿氣た言い草もないのである。その基本を母の膝の上で乳首を咥へながら憶え、家族や友だちと暮しつきあうことによって基本に肉をつけ、世間の冷い風に吹かれつつ肥らせ、驅使し、鍛えあげ、やがてわが子に傳え遺さなければならない日本語の、重要な部分をなしている漢字だからこそ、貴重な時間をこれの學習にあてているのではあるまいか。彼等の理屈は逆立ちしている」「外國の、五千を超える單語の、綴、發音、意味を、一方では學習しようとしておきながら、己が母語の重要な部分をなしている漢字は三千も無理だなぞ、どうもよくわからない。小、中學校だけでは漢字學習の時間が足りないというのなら高校でも漢字書取りをやるべきだ」と訴へ、新聞廣告の例を擧げて「おもしろいと同時に漢字の持つ力の偉大さに思わず唸ってしまう。漢字には疊一帖分の大きさの情報量を薄切りの澤庵ぐらいに壓縮して貯藏してしまう力が備っている。造語能力あり貯藏能力ありで漢字は疲れていない、これからが働きざかりかもしれぬ」と漢字の持つ力を高く評價してゐる。

  更に「振り假名は、つまり、漢字と假名=意味と音をつなぐ貴重な工夫なのだ。働き者の黒い蟲たちにこれ以上、驅除劑を撒くと日本語はバラバラになってしまう。大衆化だの、合理化だのということばに浮かれていてはならないと思う」「地名には歴史がこもっており、姓氏の因なのだ。それを、郵政省の郵便配達の便利のために、また電氣やガスの企業體の便利のために、一片の法律によってどんどん變へて行く。これは愚行というよりも歴史の破壞というべきだろう。地名ひとつが高松塚古墳と同等の値打を持つのだ」と振假名廢止と地名變更に抗議してゐる。このやうに傳統や文化を重んずる井上が假名遣となると腰が引けてしまふのはどうしたことか。「歴史的假名づかいは、大づかみにいえば『古代における表音主義を認める』立場である。だが、わたしには古代よりも*現代(いま)が大切だ。古代における表音主義は認めながら、いま、自分が生きている時代の表音主義をなぜ認めようとしないのか。この一點で、歴史的假名づかいと手を組むことができないでいる」「假名づかいなどどっちでもよろしいという氣がする」「わたしはこの先も、漢字を多用して假名づかい問題をごまかす方法を取りつづけることになるだろう」が、問ひ詰められゝば「支持するとすれば、これはもう歴史的かなづかひに決まっている」といふことである。その理由が「日本國憲法が歴史的假名づかいで書かれているからである」といふのは何とも心許ない。人一倍鋭い言語感覺を有する井上が「つまづく、ひざまずく、さしずめ、いなずま」と書くことを強ひ、「往時」は「おうじ」で「都大路」は「都おおじ」、大阪は「おおさか」で「逢坂山」は「おうさかやま」と書けといふやうな不合理な「現代かなづかい」にどうして耐へられるのか理解しがたい。

  同五十六年六月、小林一仁は『漢字教育の基礎研究』を出版し、「ルビ付きでよいから多くの漢字に視覺で觸れさせ慣れさせていく必要があるという仕方、考え方を採りたい」「漢字力・漢語力は讀解に限らない。讀む、書く、話すという、表現・理解の各領域のいずれへも及ぶ言語能力の根幹の一つである」と論じてゐる。