『なぜ日本語を破壞するのか』(八の39)

 昭和五十三年六月に出版された『なぜ日本語を破壞するのか』は、戰後の國語改革によつて惹き起こされた國語の荒廢を正面に見据ゑ、さまざまな角度から國語の本質に迫らうとしたもので、福田恆存は「まへがき」で「どのやうな大義名分を掲げようとも」「誤れる言語觀、教育觀、文化觀に基いて行はれた戰後の國字改革は」「所詮國語破壞でしかなく、いかなる意味においても百害あつて一利なきものである」と斷じてゐる。

本書は九部からなり、
 第一部は佐久千曲が江戸諸學者の國語意識から昭和五十三年までの國語問題を歴史的に展望したものであり、

 第二部では落合欽吾が假名遣とは何かを論じてゐる。落合は「現代かなづかい」は「國語の語法、語意識を破り、言葉の論理に反する暴戻(ぼうれい)であり、延いては、國語の美、日本文化を壞す蠻行である」と述べ、假名遣の問題に歴史的考察を加へ、「現代かなづかい」の矛楯と不合理を具體例を擧げて究明し、最後を「矛楯不合理だらけの『現代かなづかい』に、いつまでも國語の自然と美とを土足にかけさせておくことは現代の日本國民の恥である。われわれの祖先からの永い叡智の遺産であるかなづかひの眞價を再認識し、これを再び國民の手に取り戻さう。それを一日も早くなしとげて、次代の國民に正しい國語を傳へることが、今の日本人の任務であり、それが、鴎外をはじめ、眞に國語を愛し、國語を護つて來た幾多の先達の靈にこたへる道である」と結んでゐる。

 第三部では林巨樹が漢字の問題を取上げ、漢字の字數と音訓を制限して「世界でも有數の長い歴史と傳統の上に立つて複雜な近代社會生活を營んでゐる日本人の精神的血液ともいふべき日本語を、書き表さうとすると、どうなるか」の具體例を擧げて「別の言葉に言ひかへる罪」「惡い、新しい言葉をつくる罪」「同音で、意味の近い漢字に置きかへる罪」「語の一部を假名書きにする罪」「假名書きにする罪」、更に「字體改竄の罪」を暴き、「近代國家の權力者は、やらうと思つたら何でもやれるが、やつてはいけないこともある。蓋し、當用漢字の制限、字體のいたづらな變更などは、やつてはいけないものの一つではあるまいか」と述べてゐる。

 第四部では福田恆存が敬語の問題を取上げ、「敬語と民主主義、敬語と平等、この兩者の間には如何なる必然的關係も見出せない」「多くの人々は敬語を煩しく古くさいものと思つてゐる樣ですが、試みに吾々の言葉から尊敬語、謙讓語、丁寧語を奪つて動詞だけ露出させて見て御覽なさい。實に慘憺たる有樣になるでせう」と述べ、「です」の使ひ方について考察した後「敬語、殊にその根幹を成す丁寧語、親疎語こそ日本の近代化の梃子だつたと言へませうし、それが亂れに亂れた今日は、親疎、公私のけぢめを失ひ、個人個人が徒らに近代化の齒車と化し、公から疎外された人間同士が敬語などとは水くさいとばかりに、馴れ合ひの自己喪失に陷り、睾丸の握り合ひをスキンシップなどといふ外來語に頼つて甘つたれに逃避してゐるとしか言ひ樣がありません」「敬語、殊に丁寧語、親疎語は自他の距離測定によつて自己確立の役割を演ずると共に、相手方を大切にする事によつて、結果としては自己の品位を保つ役割をも演じ得るのです。尊敬や謙讓が結果としては自己の品格保持に通じるのと同じ事でせう」と述べてゐる。

 第五部では鈴木由次が戰後の國語教育を批判し、「作品として提出する作文は、どんなに私的なことを書いたものであつても、明らかに公の場に發表される文章であり、そこには社會的な責任と節度とが要求されてゐる。それが表現の倫理といふものであり、作文教育、さらに國語教育一般の目的は、さうした表現の倫理を體得させることにある、と考へてよいであらう。戰後の國語教育で最も忽(ゆるが)せにされてきた、といふよりはほとんど廢棄されてしまつたものは、この表現の倫理ではなからうか」「美しい言葉が美しい世界を作るのである」「傳統的な"形"を身につけた者のみが、新しい"形"を創造し得る」のであり「國語教育の第一の課題は、この國語の傳統的な"形"を教へることにある」「文章語と會話語とは別のものであり、一國の國語の正統は常に文章語によつて保持されて」をり、「無定見な日常語が規範を失つたまま横行し、さらに文章語の世界にも侵入してくるとしたら、恐る可き國語の荒廢をもたらさずにはゐないだらう」と示唆に富む意見を述べてゐる。

 第六部では土屋道雄が八種の國語辭典を比較檢討して「辭典の生命は規範性にあるが、その規範性が徐々に喪はれつつある」と警告してゐる。

 第七部では問答の形式で村松剛が「漢字を制限することは、結局單語數を制限することにひとしい。一國の國語の單語數を政府が制限してゐる國が、どこの世界にありますか。言語彈壓、文化の歪曲、これにすぎるものはありません」「言葉は文化の中心だといふことがわからない。その程度の知能水準で新聞をつくつてゐるといふことは、考へただけで空恐しいですよ」と述べてゐる。

 第八部では土屋が差別語をタブーにしてはならないことを論じ、

 第九部には土屋と朝日新聞社の用語課長との間で行はれた論爭が收録されてゐる。