『差別用語』の出版(八の34)

昭和五十年十一月「用語と差別を考えるシンポジウム實行委員會」編の『差別用語』が出版された。第一部は差別語をめぐりどのやうな問題が起り、どう處理されたかを具體的に示してをり、例へば、フジテレビの「三時のあなた」といふ番組で「そりゃあやっぱり特殊部落ですよ、藝能界ってのは------」と發言した司會者の玉置宏に對して、部落解放同盟から猛烈な抗議があり、玉置は土下座をして謝つたり、同番組の中で涙ながらに自己批判をして漸く赦されたとか、算數の教科書から「四つ」といふ言葉がすべて削られたとか、理科の教科書でも「こみあっているなえを、じょうぶにそだてるには、ふつうまびきをします」の「まびき」が差別につながるといふので削除されたとか、夥しい數の驚くべき事例が紹介されてゐる。
第二部は五月二十四日に行はれたシンポジウムの全記録であり、第三部は差別用語についての四人の識者の見解、第四部は放送局などが作つた「禁句集」「いいかえ集」などの資料を收録してゐる。第三部で飯沢匡は「大體、差別語問題の話を聞いてボクがバカバカしくて仕方がないのは、差別語を問題にしている人たちが、何か自分たちだけが差別されていると思い込んでいるらしいことだ」「世の中には奇妙なことに、全體の文脈や文意、作品の意圖とかかわりなく、ことばが規制されたり糾彈されたりすることが澤山あるという。これは全く愚劣なはなしで、信念をもって説明すればすむことで、それでわからなければ、不純だということに盡きるだろう。まして、明らかに大勢で來て人を脅迫するのなら犯罪であり、これは警察の問題だ。本來ジャーナリズムはそれを告發し、問題にすべき立場にいるはずなのに、それを放置していたり、ましてゴチャゴチャとウラで手打ちをやってあやまったりするなどもってのほかだ。文章で論爭して、それでダメなら訴えたらいい。それが市民社會の論理なのだ」と述べ、石卷靖治は「新聞や放送にみられるきわめて安易な言い換えの動きは、ことばについて無神經で定見をもたなくなったジャーナリズムの退廢の一現象である」と述べてゐる。
かうした毅然たる態度を取らなかつたために、徒らに事態を混亂させてしまつたのではないか。いはゆる差別語は消滅してしまふのか。そんなことがあつてはならない。差別は言葉にあるのではなく、言葉を使ふ人間の心にあるのだ。差別をなくする意圖で差別語を使ふこともあれば、差別語を一語も使はずに人を差別することも出來る。文脈や意圖と切り離して是非を云々しても意味がない。新聞社、放送局等が作る「いいかえ集」や「放送上避けたい用語」などは有害無益である。文法の誤りは正さなければならない。言葉づかひの間違ひは正さなければならない。漢字の誤用は改めなければならない。が、これこれの言葉は使つてはならないと禁止する權利は誰にもない。言葉を抹殺することによつて、現實を變へられると思ふのは錯覺である。老婆を「老女、老婦人」に、藝人を「藝能人」に、職工を「工員、工場從業者」に言ひ換へることにどれほどの意味があるのか。マス・メディアの自主規制は、自ら言論の自由、表現の自由を踏み躙ることであり、現實に存在する差別をなくするといふ本來の課題には何の益もない。むしろ、現實に存在する差別を隱蔽することにならう。
小林よしのりは、自己に正直であらうとする表現者として、當然のことながら『ゴーマニズム宣言』第三卷(平成六年三月發行)で、「呆」の字はいけない、「バカ」も「狂ってる」も使つてはいけないなどと「内容や文脈に關係なく差別語だからいかん この字が差別字だと言ってくるバカがいたら 編集者はちゃんと鬪え!」と言つてゐる。なほ、小林は『〈新〉ゴーマニズム宣言』第七卷に「日本語という言語にも大變奧深い知惠があるんです」「音讀みと訓讀みという畫期的な方法を編み出し、さらに自分たちの言語と文字を一致させようと工夫して、ひらがなが出來、そしてカタカナが出來て、そして今の日本語がつくられるんです。漢字をとり入れながらも、自分たちがもともと使っていた言葉、その感受性をそこなわないように、工夫に工夫を重ねた纖細な言葉、それが日本語なんです」と書いてゐる。