『崩れゆく日本語』の出版 (八の30)

  昭和五十年八月、福田恆存・宇野精一・土屋道雄編の『崩れゆく日本語』が出版された。林武は「まえがき」で「國語問題協議會は、一昨年、國語正常化の一環として、テレビ・ラジオ等におけることばの誤用や不適當な用法を集める運動を行い一應の成果を收めたが、今囘はテレビ・ラジオに加えて、新聞・雜誌・單行本等の表記をもとりあげた。しかも、それは單なる誤用の指摘にとどまらず、誤用である所以をわかりやすく説明するとともに正しい用法を示して、崩れ行く日本語に一つの齒止めを試みた」「私共は本書で、果して日本語はこのままでいいのだろうかと具體的な問題提起をしたつもりである」「本書の出版を契機に、日本語の現状が全國民によって議論され、そこから眞の日本語のあり方が探究されるよう、切に希って止まない」と述べ、土屋道雄は「あとがき」で「日本語は確かにむずかしい。が、それは他の言語と比較してむずかしいという意味ではない。つまり、むずかしいのは日本語に限らないのである。何語であろうと、言語文字に習熟するのは容易なことではない。いかに努力しようとも、人間の心がついにきわめつくすことができないのと同樣に、言葉もまたきわめつくすことはできない。そういう意味で、人間の一生は言葉との格鬪であるとも言えるのではないか」「本書出版の話があったとき、正直言って私は躊躇した。大變な努力と時間とを要する骨の折れる仕事だと思ったからだが、今囘の仕事を通じて感じたことは、新聞雜誌に誤植や誤記が非常に多いということである。ある雜誌などは、一册に百ヶ所以上もあった。その大部分はつまらぬ誤植に過ぎないとは言え、國語が粗末に扱われている一證左であると思われる」と述べてゐる。
反響は極めて大きく、讀者から寄せられた葉書は五千通を超えた。中でも朝日新聞の用語課長の反論は「締め切り時間に追われ、書き飛ばさなければならない」とか、機構は大きくても「校閲部員は一人一面に過ぎない」とか、「内部事情を知らない批判は酷だ、という氣がします」とか、「朝日新聞や週刊朝日の記事が、かなりやり玉にあがっていますが」とか、日本語より朝日の立場や面子に捉はれ、事例の一つ一つに反論を試みたものであつた。その反論が筆者が應へるといふ形で、朝日の用語課長と土屋との間で論爭が行はれた。左に依怙地についてのやり取りを紹介する。
〈反論〉「いこじ」は意氣地の變化したものといわれ、普通、依怙地とも書く、とはどの國語辭典にも示されているところ、「怙」が制限漢字なので、新聞では「意固地」と書くことに決めているわけで、字引きにどうあろうが「依怙地」でなくてはならない、という言い方こそ「いこじ」な態度ではないでしょうか。土屋さんのご意見を伺います。
〈返答〉「普通、依固地とも書く、とはどの國語辭典にも示されているところ」というのは本當だろうか。手數でも手許にある辭典を引いてみるしかない。先ず戰前に發行された『辭苑』はもとより昭和三十五年發行の『廣辭苑』(第一版)には「依怙地」とあるだけで「意固地」など出ていない。『新潮國語辭典』(昭和四十年發行)も全く同じである。『角川國語中辭典』(昭和四十八年發行)も全く同じである。(試みに旺文社の『國語實用辭典』を引くと「依怙地」の下に「意固地」とあるが、「從來あて字と考えられている書き方」という但し書がついている。)「どの國語辭典にも」というのは全くのでたらめである。反論するにしても、もう少し調べたり勉強したりしてからにして貰いたい。それが禮儀というものではないか。「怙」の字が當用漢字にないなどということを、「意固地」と書く理由にされてはたまらない。あて字や誤字を普及したいなら話は別だが、そうでないなら、また、當用漢字表を尊重する立場にある新聞社として「依怙地」と書けないなら、他の熟語で行っているように、依怙地(いこじ)または依怙地〈ルビ・いこじ〉とするか、平假名で書くか、あるいは全く別の言いまわしを使うかすべきであろう。もっとも、「朝日」は當用漢字表に必ずしも忠實に從っていない。當用漢字表を絶對であるかのように言うのはをかしくないか。「字引にどうあろうが『依怙地』でなくてはならない、という言い方こそ『いこじ』な態度ではないでしょうか」という一文は、「字引にどうあろうが『〈意固地・傍點〉』でなくては------」と直してそのまま「朝日」にお返ししたい。