吉川幸次郎の見解(八の28)

 昭和五十年二月、『吉川幸次郎全集』第十八卷が刊行された。吉川は、本書に收められてゐる昭和十五年七月に「都新聞」に發表した「國語について」において、「國語の何よりの特質は、テニヲハの存在」であり、テニヲハの働きにより「國語は明晰な言語であるといえる」「これはひとり中國語に比べてそういえるばかりでなく、ヨーロッパ語と比べても、そういうことがいえるのではあるまいか」と述べ、「國語の第二の特質は、その柔軟さにある。すなわち新しい言葉を自由に發表させ、また發生した言葉を、自由に文章の中に受け入れ得る柔軟さである」とし、この柔軟さは「國語を混亂」させ「同義語の氾濫」となるけれど、だからと言つて「漢語を驅逐」するのは「不可能であり、不得策である」が、「今の漢語の使用は、はるかに必要の限度を越えていることを、より強く感ずる」と述べてゐる。
 また昭和二十六年九月の『中央公論』に發表した「かなづかい論」において、吉川は假名遣の改革には理由があり、「日本語は發音をそのままに表記しうることを、大きな特徴として、かつその表記法の歴史は、この特徴を生かしつつ發展してきたと、觀察するからである」と述べ、歴史的假名遣の文章を「現代かなづかい」に書き改めたところ「どこが書き改められているかを數えるのに、ある時間がかかるであろう。それほど輕微な異同なのである」「古い文學を讀むためには、古い語法を本格的に修める必要があるので、その際、新舊かなづかいの差違となって現われる問題などは、そうした古い語法の學習の一部として、附隨的にすぐ習得できるはずのものである」といふ理由で「現代かなづかい」を支持してゐるが、「輕微な異同」であり、簡單に習得できるなら、何故改革する必要があつたのか、同じ理由から改革など必要なかつたと言へるのではないか。