改定「當用漢字音訓表」と改定「送り假名の付け方」(八の26)

 昭和二十三年に公布された「當用漢字音訓表」は、これを忠實に守れば「お父さん、時計、掃除、息子」は「おとうさん、と計、掃じ、むす子」と書かねばならず、實に不自由なものであつた。さういふ不滿に應へて、昭和四十八年六月、内閣訓令・告示で改定「當用漢字音訓表」が公布された。三百十四字について三百五十七の音訓を新しく採用すると共に「田舍、大人、時雨、浴衣」等百六語の熟語や宛字を復活させた。それでもなほ昭和五十六年十月に公布された常用漢字千九百四十五字の中に音のない漢字が四十字ある。四十字の中にいはゆる國字が入つてゐるのは當然だが、その他は音を持ちながら殆ど使はれないといふ理由で省かれた漢字「貝、娘、株」などである。一方、訓のない漢字が七百三十八字もある。今、音と訓の數によつて分類すると左のやうになる。
一音訓ナシ---------六六五字
  一音一訓-----------六三三字
  一音二訓-----------二二七字
  一音三訓-----------七六字
  一音四訓-----------三一字
  一音五訓-----------七字
  一音六訓-----------一字(汚)
  一音七訓-----------三字(交冷揺)
  二音訓ナシ---------七一字
  二音一訓-----------九一字
  二音二訓-----------五三字
  二音三訓-----------一五字
  二音四訓-----------一〇字
  二音八訓-----------一字(上)
  二音九訓-----------一字(明)
  二音十訓-----------二字(生下)
  三音訓ナシ---------二字(法質)
  三音一訓-----------七字
  三音二訓-----------五字
  三音三訓-----------二字(合行)
  三音四訓-----------一字(分)
  五音二訓-----------一字(納)
  音ナシ一訓---------三二字
  音ナシ二訓---------七字
  音ナシ三訓---------一字(掛)
 なほ、自動詞と他動詞をそれぞれ別の訓として數へてゐるから、二訓、三訓といつても實質は一訓、二訓である場合が多い。ここで注目されるのは訓のない漢字があまりにも多いことである。中には「胃、腸、肉、線」のやうに音がそのまま訓の働きをしてゐるものもあるが、これほど訓なしが多いのは戰後の音訓制限のせゐである。が、訓がないからといつて、漢字が持つてゐる意味を知らなければ、漢字を正しく使ふことはできない。意味のない漢字はない。短い和語で意味を表せないものは別にして、例へば視の「みる」、復の「かへる」、容の「いれる」、壓の「おさへる」のやうに短い和語で意味を表すことが出來るものは、どんどん訓として採用する方が、どれほど漢字教育がし易く、どれほど漢字が學び易いか知れない。さうせずに「視察、監視、注視------」「復路、往復、囘復------」「容器、許容、受容------」「壓力、氣壓、壓迫------」などの熟語の意味を教へることは出來ないだらう。またたとひ訓があつても、その訓だけでは不十分なものには訓を加へるべきである。例へば「中」には「なか」の訓しか認めてゐないが、「あたる」といふ意味があることを知らなければ「中毒、的中」などの熟語を效率よく理解することは難しい。「原」には「はら」の訓しか認めてゐないが、「もと」といふ意味があることを教へないで「原形、原料、原文、原案------」などの熟語の意味を理解させることは出來まい。「あたる、もと」も當然訓として採用すべきである。
 この新音訓表と同時に公布された改定「送り假名の付け方」は、從來のものが品詞別の二十通則になつてゐたのを、單獨の語と複合の語、活用のある語と活用のない語とに分けて七通則に簡略化し、それぞれ「本則」の外に「例外」と「許容」を認めて彈力性を持たせてゐるが、これに從つて文章を書かうといふ氣にはなれない。また、これによつて送假名が統一されるとも思はれない。
日本語には正書法がないとか、正書法を確立することは難しいとか言はれる。その通りだらうが、それを日本語の缺陷だとは言へない。確に、語と表記が一對一の對應關係にはないが、その時その場に最も相應しい表記を選べばよいわけであり、それはむしろ長所であつて短所ではない。送假名に確たる法則がないといふ不滿の聲を聞くが、それだけ書き手に自由が許されてゐるのだと考へ、あまり神經質にならぬことである。とは言つても、そこに法則もあれば慣習もあり、どうでもいいといふことではない。ときどき「著じるしい、快よい、退りぞける、貫らぬく」などとあるのを見掛けるが、送假名の第一の大原則である「活用語尾を送る」に反してをり、「著しい、快い、退ける、貫く」と書くべきであらう。他は「番組、組合、學割」のやうに慣習に從へばよいのである。
昭和四十八年十月、國語問題協議會の事務局長の岩下保は『國語國字』の時評において、市原豐太の文章が朝日新聞と讀賣新聞に歴史的假名遣で掲載されたことを報じ、歴史的假名遣で作品を發表してゐる宮尾登美子、塚本邦雄、高井有一、倉橋由美子、里見ク、平泉澄の仕事振りを紹介して「この樣に正假名遣は漸次、新聞、雜誌、圖書、教科書、一般の小册子に至るまで使用される樣になつてきてゐる。日本國憲法が示してゐる假名遣。論理的で見た目に美しい假名遣。歴史的にもつとも正しい假名遣。つまり正假名遣(歴史的假名遣)の復活は今や時代の趨勢である。これからは、それに比べると難點の多い『現代かなづかい』の方が次第に不要な表記法に化して行くであらう」と述べてゐるが、殘念ながら、現實はそのやうに推移してゐない。