河野多麻と村尾次郎の國語觀(八の20)

昭和四十四年四月、河野多麻は、『國語國字』に「國語の諸問題」と題して、萬葉集に見える言靈、ヨハネ傳にある「------言は神と偕にあり、言は神なりき------」を例に言葉の大切さを説き、「國語表記の簡素化は能率を高めるどころか、國語力の減退となり、從つて理解や表記が困難となり、他學課の讀解力理解力の低下を齎らしました」「二千年此方の日本國民によつて育てられてきた國語といふ大事な文化財を、一億の日本人の所有する國語といふ財産を、法律で使用を禁じたり制限したりする權利が何人にあるのでせう」と述べ、戰後實施された改革を具體的に批判し「日本國民の生命ともその象徴ともいふべき國語を輕んじ、ひたすら外國語を尊重し、大和魂の自然消滅を圖りつつあるのだといふ事に氣づかないのでせうか」と問ひかけ、文部省檢定の教科書を通讀して「日本語を話す日本人を日本國内で植民地竝の國語教育を施してゐる」ことに驚き、「滑稽とも笑止とも皮肉とも、わけのわからない痛憤に涙も出ない有樣です」と嘆いてゐる。

昭和四十四年五月に出版された村尾次郎の『氣骨の彫刻』は二十年餘りの間に折に觸れて書かれた隨想集である。村尾は「現實の耳は千態萬樣で、むしろ不格好なものでさへあるけれど、藝術家の筆にかゝれば耳が見えることによつて智性を感じ、隱されれば女の姿は艷然たりである。この隱顯の妙を感得することが美學なのであらう。言葉もさうだ。正しく豐かで美しい國語を育てることが大事だとはよく聞かされるきまり文句だが、現今の日本はまさにその正反對のやうだ」と述べ、由緒と似合を尊重すべきだとして、「漢字かなまじり文を生命とする日本語では、漢字の一點一畫を大切に扱ひ、恣意にこれを崩さないやうにすることもまた由緒の重要な一面である。ところが今はどうだ。漢字は難しいなどといふ迷信に踊らされて、譯もなく點畫を省き、何となく似てゐるがしかし全く違ふ新造符牒に過ぎないものを漢字だと僞稱してゐる」「一つの漢語が或る字形に組立てられたのにはそれなりの根據があるのだから、勝手に點畫を拔き去つたり消したりすれば意味と形の因果關係は斷たれ、形は身元不明の死骸と化するほかない。私は略體漢字などといふふとどきなものを製造するのを野蠻行爲であると思つてゐる」「男の言葉、女の言葉、子供の言葉、おとなの言葉などの生理的な違ひや、商人、職人、會社員、警察官などすべて職業の別から來るところの、それにふさはしい言葉遣があればこそ、言葉は微妙な變化を見せておもしろくなるのである「まさに國語は危機に直面してゐる。國語の危機は同時に日本の危機なのだ。國語が亂れたから國が亂れたのだ。そこで、どうしても此の際、由緒正しい國語に歸つて、似合のある國語が身につくやうに自分を鍛へ上げなくてはならない」と訴へてゐる。また「由來、先學は資料の一語一句の音訓に細心の注意を拂ひ、その眞意を汲取ることに力を盡された」「國語表記法の強制的改變と度量衡の強制的メートル法一元化とは、歴史的研究法の此の第一義的な掟を破つてしまつた。固有名詞と普通名詞とは絶縁されて脈絡を見失ひ、傳統的な表現表記は過去の遺物と化し、國語は戸籍のない放浪の民に等しく、歸趨し安住する場所を見失つて漂流を續けてゐる」と述べ、村尾は正統を尊ぶ立場から本書を正漢字正假名遣で出版するといふ氣骨を示してゐる。

世界の三大難問を一人で解いたと言はれる數學者の岡潔は夙に戰後の國語改革に反對し、いはゆる「石井方式」による漢字教育を支持し「漢字は心の珠を磨く道具である」といふ明言を殘してゐるが、岡は昭和四十四年六月に出版した『曙』に「國語ではこの國のこまやかな情緒を教えて欲しいと思う。詩や歌をはさんで欲しい。詩とは粒子型で情操に働くもの、歌とは波動型で情緒に働くものである」「小、中學校の教育は何よりも先生が大事である」「詩によって頭頂葉を育てようと思えば、民族の詩としての日本歴史を教えるのが一番よい。『うた』によって頭頂葉を育てようと思えば、國語によって濃まやかな情緒を教えるのが一番よい」と書いてゐる。


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