築島裕の「國語改革の過去と將來」(八の16)

築島裕は昭和四十二年六月の『研修』に「國語改革の過去と將來」を書いてゐる。築島は國語問題の歴史を辿り「かやうに、戰前までの國語といふものは、その表記法についても、文體についても、遙か千年も昔の風を保護して來たことになる。その傳統が、戰後崩れ去つたといふことは、見方によつては、明治維新にも果されなかつた、それよりも更に大がかりな變革であつたとも考へられよう」と述べ、具體的に當用漢字と「現代かなづかい」の不備を指摘し「このやうな不備は、それが告示といふ公共的性格を帶びた形で發表され、しかも種々な面で公的規制を加へてゐるものである以上、その不備は許容される性質のものではないと私は考へる。從來の歴史的假名遣は、勿論種々の缺點を持つてはゐるが、それなりに完成された體系を持つた規定であり、理論的な嚴密性をも備へてゐて、その點では、遙かに勝るものと考へられる」と姿勢を明確にしてゐる。
一方「文體の改革、即ち、文語體から口語體への移行は、遙かに合理的であり、又、有意義なものであつた」「日本の民主々義化や一般國民への知識の普及にも與つて力があつたことであらう」「日本文化全體の上から見ても、大いに多とすべきものであらう」と口語體への移行を高く評價し、「一片の訓令によつて強制的に交付されたのではなく、謂はば自然の形で全體に滲透して行つたといふ點において、その普及そのものに必然性があつたと見るべきであらう」と見てゐる。ただ「文語體といふ文體は一朝一夕に成立つたものではない。約一千年間の傳統を踏へてゐるもの」で「自ら獨特の風格も備つてゐる。中でも書簡用の候文などは、その大なるものであらう。簡潔な行文の裡に、的確に論旨を表現し、しかも相手に對して節度ある敬意を表現し得るこの文體は、平安時代に起り、鎌倉、室町時代に完成し、以後長く愛用されたものであつて、捨てるには惜しいやうな氣持を強く抱くものである」と候文のよさも認めてゐる。
築島は戰後の改革によつて「戰前と戰後の文化の流れは深く斷絶された」「このままで行つたら、明治は勿論のこと、昭和の歴史や文學でさへ、それを專攻する學徒を生むことも極めて困難となる時代が、早晩訪れるのではないかと私は憂へるものである」とし、最後を「日本人はもつと自國の文化を、我々の祖先の文化を凝視し、その深さ、優秀さ、美しさをじつくりと噛みしめなければならない。我々の祖先の生んだ文化的遺産は、もつと大切に護持されなければならない。その爲には文化の斷絶を齎らした皮相淺薄な國字改革は排斥せらるべきであり、もし國字に改むべき點があるとしても、科學的根據に基いた拔本的な施策が期待されなければならないと思ふのである」と結んでゐる。
昭和四十三年三月に出版された輿水實の『國語科教育學入門』は國語の學習指導に當り考慮すべきことを具體的に論じたもので、例へば「言語の學習指導」の中で「石井勳氏が東京四谷第七小學校で試みられた、漢字で書かれる語は、學年配當にかかわりなく漢字で提出するという方式は、國字問題として、『漢字はむずかしくない』という事實の證據として印象されているが、讀字・書字の區別の問題としても、考慮に値する」「石井方式は『正書法』という考えに立っている。これは非常に重要な考えである」と述べてゐる。


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