金田一春彦の『新日本語論』(八の13)

昭和四十一年二月、金田一春彦の『新日本語論』が出版された。金田一は、日本語は亂れてゐるといふのは「一般知識人の合言葉になっている觀がある」が「現在のこの状況がもし《亂れている》と言うならば、日本語はこれまでいつの世にも亂れていたことになるのではないか。また、日本語に限らず、あらゆる國語が亂れていることになりはしないか」「この程度の亂れは言葉の常である」から、何ら氣にすることはなく「この程度の亂れは『亂れ』として騷ぐにあたらず、というのが結論である」として、平安時代も、江戸時代も、明治時代も、アメリカでも、イギリスでも、フランスでも亂れてゐる事例を擧げてゐる。
金田一が二年前の十二月に『文藝春秋』に發表した「日本語は亂れていない」も同趣旨のものだが、日本語が亂れてゐないことを證明するためにこれだけの執念を燃やすことにどれほどの意味があるのか。亂れてゐないことを力説する目的は何なのか。戰後の國語改革によつて、文部省が率先して嘘字や宛字を普及させたことによつて、日本語輕視の風潮が生れ、若者の國語力が低下して、近頃の若者は言葉を知らない、敬語の使ひ方がなつてゐない、試驗の答案やレポートに誤字や宛字が多いといふ批判に對して、金田一は氣にすることはないと言ひ、戰後の改革を辯護したいのだらう。萎縮を委・縮、交叉點を交差・點とした文部省の改革を支持する立場からは、若者の誤字や宛字を咎めることは出來ないだらう。むしろ、汽船を氣・船、銘記を名・記、運搬を運般・と書く若者を襃めてやらねばならぬのではないか。
  ところで、「私は趣味/嗜好の點ではきわめて國粹的/保守的の人間」で「日本語でも、舊字體/舊假名に愛著を持つ」と言ふ金田一は大勢順應派であり、御都合主義者であるやうだ。「見れる」「來れる」は「受け身や尊敬の言い方と區別できる點で、『來られる』『見られる』よりすぐれている」と言つたり、「緊張さ」「純情する」は「日本語の品詞の區別を不明確にするので、私もこれは排撃する」と言つたり、評判の惡い「送りがなのつけ方」について「何という矛盾だらけのきめ方だろうと思い、國語審議會第一の失敗作だと評價する」と書いたりしてゐる。確乎たる信念がないから、後に「福田恆存君を偲ぶ」(平成七年十二月號『This is 讀賣』)において「當時は福田君がいくら叫んでも假名遣いがもとに戻ったり、漢字が無制限に増えることはなさそうだと思っていた」が「戰後三十餘年たってみると、驚いた。ワープロという機械が發明され、普及し、机の上でチョコチョコと指を動かすと、活字の三千や四千は簡單に打ち出してくれる。そうした普及につれて値段も安くなり、性能もよくなった。新聞ぐらいは、机の上のワープロ一つで簡單に印刷できる。これなら當用漢字の制限はしなくてもよかったし、字體でも假名遣いでも昔のままでもよかったのだ」「偉い友人だったと思うこと切である」と書いてゐる。醜態には違ひないが、非を認めたがらぬ改革論者に比して潔いと言ふべきであらうか。


 



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