『日本の言葉』と『ゆれる日本語』(八の3)

 昭和三十七年四月、山本健吉の『日本の言葉』が出版された。國語問題にあまり介入する氣がなかつたが、日本文藝家協會の國語調査委員會の委員長を努めることになつて、否應なしに關はることになつたといふ山本は、「國語審議會は、國語をいぢることのこはさを知らない人たちの集りなのか」「新かなが、その可否はともかくとして、もつとも劣惡な條件のもとで、もつとも拙速に實施されたものだといふことは、はつきり記憶しておくべきことである」「新かな論者は民主主義者であり、反對論者は保守反動の徒であるといふ僞裝のもとに、火事泥的既成事實をつくつてしまつたものである」「生きた有機體である日本の國語を、人爲的にいぢくりまはす權限が、どうして文部省の國語課や、その外廓にこしらへ上げた國語審議會の委員諸公に、あるのか」と「現代かなづかい」制定の根據に疑問を呈してゐる。 また「私は彼等の一人一人が、國語をよくしようといふ善意に燃えてやつてゐるのだらうといふことを、疑つてゐるわけではない。だが、押しつけがましい善意ほど、厭はしい、はた迷惑なものはないのだ」「文學者の多くは、古い表記にあこがれを持つてゐて反對するのではない。言葉の本質、國語の本質から見て、どのやうな表記法を取るのが合理的かといふ見地に立つた上で、審議會の打ち出した政策を非合理と認め、したがつて便宜にも反すると認めて、反對してゐるのである」と述べ、國語改革の最終目標がローマ字化にあることを指摘し「われわれは彼等の隱された意圖を見拔かなければいけない」と訴へてゐる。ただ「私は漢字・漢語をできるだけ減らして行きたいといふ點で、倉石氏と意見が一致してゐるから、その故にこそ、なほのこと假名づかひにおける表意性の保存といふことに執着するのである」と言ふ眞意が解らない。どのくらゐまで減らしたいのか、なぜへらさなければならないのか、疑問が殘る。
 同三十七年四月、池田弥三郎の『ゆれる日本語』が出版された。池田は「漢字をへらしたり、かなづかいを現代式にしてしまったのでは、古典とのつながりが切れてしまう、といって心配する人たちが、よくまあ、メートル式をだまってうけ入れたと思う」と言ふが、默つて受容れたわけではない。反對の聲は決して少なくない。戰後の國語改革を支持する池田は「キタナイと言い、マチガイと言い、イケナイと言ってみたところで、より多くの大衆が採用して使ってしまえば、これはもうどうにもしようがない。勝てば官軍といったところである」と述べてをり、自ら「國語審議會の委員としてのわたしは、大勢順應派であっていいと思っている」と言ふだけあつて、理想も見識も持ち合せてゐないやうだ。