『今後の問題(その六)』(7‐47‐8)

第四に、標準語の問題、或いは語の搖れの問題がある、或る語について機械的に標準語か否かを定めることは出來ないが、假に出來たとしても、、方言の標準化といふ現象化は起きるし、またそれは望ましいことですらある。「現代かなづかい」は現代口語の標準語音を表わしたものと安易にいつてゐるが、その標準語音、及び標準語そのものが絶えず搖れてゐるとすれば、それをどうして表記し得るか。例えば、「黄瓜」は「キユウ・リ」となつてゐが、ある地方では「キ・ウ・り」である。東京近邊が前者であるといふのは現實論である。が、後者を標準語とするが望ましいといふ理想論も否定しえない。國語の正確と美といふことを標準語選定の基準とせず、專ら東京近邊の通用語、通用音を標準語と考へて怪しまなかつた態度こそ、むしろ怪しむに足りる。表記法改革を行ふ前に、一々の語彙、語法について先づ右の觀點から標準語、及び標準語音を決定して掛るべきである。
これと關聯して文語の問題がある。「現代かなづかい」は現代口語の標準語音を表はすといふが、口語と文語とを機械的に截然と分つことは出來ぬばかりでなく、また分つべきでもない。例へば「べき」は口語においてもよく用ゐられるが、その終止形「べし」は殆ど用ゐられない。國字改革以來、朝日新聞、毎日新聞は見出しにまですべて口語體に直してしまつたが、今年になつてから朝日は再び文語體を復活させ、「老女殺される」ではなく「老女殺さる」式の表現をしばしば用ゐ始めた。また廣告などでは「待望の新刊書出る」よりは「出づ」が愛用され、それが「出ず」となつてゐて、苦笑を誘ふ事がままある。これらの文語の用法は單に古きものの殘存を意味するものではない。それにはそれだけの理由があるのだ。そもそも口語は絶えず搖れ動いてゐるもので、それを文語と分つ原則などあり得ない。例へば、「動かす」「無くす(失)」」等は文語のまま口語として固定したものだが、これは口語なら「動かせる」「無くする」でなければならぬと機械的に差別しえまい。殊に後者「無くす」と「無くする」では、「失ふ」と「無いやうにする」との別義に分れている、「現代かなづかい」は文語文に適用せぬと言ふが、それでは文語文中の文語と口語文中の文語とでは、それぞれ書分ければならぬのか。それこそ考へてみれば、表記法を決定するに先立ち、文語と口語との關係に明確な見通しを立てて掛らねばならぬ筈である。 更にそれらの問題と關聯して、文法、敬語等の問題がある。今日、敬語は亂れに亂れてをり、口語文法は明治以來、いまだかつて文法らしい體裁を整へてゐないといつてもよい程のものである。が、それらとの關聯を無視して表記法を輕々に改革すべきではないのである。それにも拘らず、明治以來、國語問題と言へば單純に國字問題を意味し、表記法にのみ關心が集中してきたのは、論者の目的、對象が國語そのものにあつたのではなく、生活の近代化といふことにあつたからである。それは學校教育が知識や教養のためではなく、專ら富國強兵と立身出世のためにのみ重視されたのと類似の現象と言へよう。隨つて、何よりの急務は國語問題の對象を生活から國語の領域に移すことであらう。 以上、今後の國語問題の在り方について述べたが、戰後の國語改革が全くの過ちであつたとしても、既に十數年が經過してゐる以上、これをどうしたらよいかいふ問題が殘る。それについては、以下に假名遣、漢字、送假名、それぞれの現状を簡單に示し、今後の解決策を暗示しておかう。



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