『今後の問題(その六)』(7‐47‐6)

先づ第一に、我々は出來る限り普遍的な基準をもたねばならず、それは國語の本質と歴史を究明することによつて、その中に求められなければならない。と言つて、それは難易を無視することを意味しない。なぜなら國語の本質と歴史を破壞しない限りにおいて、當然、難易は考へられるからである。例へば、かつては「行かむ」發言してゐたが、その「む」の子音mが弱化して母音uのみになつたとすれば、それは「行かう」と表記し、前者を文語表現、後者を口語表現とする方が便宜でもあり易しくもある。が、この難易の「基準」を更に推進めて「行かう」とまではしない。「か」を存續せしめて文語「行かむ」や口語「行かない」と語法上の必然的連關を保たしめるのである。のみならず、「う」と發言してゐるものを「む」と表記するのは、「こう」と發音してゐるものを「かう」と表記するのよりも難しく、前者で難易を考慮し、後者でそれを無視するのは極く自然である。

今後、我々が國語問題に接する場合に考へねばならぬ第二の基本的態度は、右の第一條から必然的に導き出されることであるが、國語の表記法として漢字假名交り文を採用するといふことである。我々はその枠内で最善の努力を盡すべきである。この場合にも、難易の觀點に立てば漢字を廢するに越したことはない。既に見てきたやうに明治以來國語國字改革運動の力點は漢字廢止に、或いはその過程としての漢字制限に置かれてきた。が、今まで論者は漢字を廢し制限した場合の利點のみを強調し、その損失を國民の目に隱してきたばかりでなく、みづからそれには氣づかなかつたのである。文部省にも國語調査委員會以來國字ローマ字化への傾向が強く、その調査が行なはれてきたが、やはりローマ字の利點のみ捉はれ、その實現化の方法を研究してきただけであつて、國語をローマ字化することによつて、いかなる損失と障碍が生ずるかを見極めようとしなかつたのである。が、國字表音化に多くの利點があることは表音主義者の宣傳に俟つまでもなく、誰の目にも明かな事實である。人々が表音化に踏切れぬのは、その利點が解らぬからでなく、その損失が豫想できぬからである。隨つて、漢字廢止を目ざすものは、漢字の弊害を指摘する前に、先ずそれを廢することによつて生ずる損失を見極め、その損失が微々たるものであることを國民に納得させなければならない。今後のローマ字、假名文字の研究はその線に沿つて行はれなければならない。またその線に沿ふ限り、ローマ字、假名文字による國語表記の研究は望ましいことなのである。なぜなら、それによつて國語の本質と歴史とが究明され、その結果、表記法の安定を見るに相違ないからだ。


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