『今後の問題(その五)』(7‐47‐5)

國語問題においても、他のあらゆる問題と同樣に、二つの立場が存在する。一つは本質と歴史とを重視する立場であり、他の一つは便宜を目やすとする立場である。前者においては、難易は第二義的な考慮しか拂はれず、基準は現代と我々を超えたところに、言ひ換えれば、過去、現代、未來を包含しうる國語の本質を想定するところに現れる。それに反して後者においては、難易こそ唯一絶對の基準である。が、難易を基準とするといふのは基準なしにするといふのと同義であつて、それは基準なきをもつて基準とするといふ全く無意味な文語に歸着する。

なぜなら、難易は好惡と同じく主觀的なものである。客觀的には同一の對象が時代によつて、また地域によつて難易を異にする。それどころか、個人個人の能力、素質、性格、環境などによつて、甚だしい相違がある。なるほど、それでも大よその平均値は考へられようし、それを基準として、教育を行ひ得るであらう。が、それが基準として一般化される頃には、かつての平均値を今や難しと考へる者が壓倒的多數者となり、更に易き所に平均値を求め直さねばならなくなることは必至である。つまり、難易を基準とする時には、人は限りなく易きにつくことを求め、基準は絶えず下方に向つて變動し續けるのである。變動し續ける基準とはそれ自體矛盾を含む。

表記法において難易を主とするとは、書き易く、かつ解ればよいといふことに歸着し、客觀的な正誤の觀念が曖昧になり、隨つて誤りを誤りとなす根據を失ふ。例へば「現代かなづかい」においても助詞「は」「へ」「を」は歴史的假名を蹈襲しているが、難易の觀點からすれば、「私わ學校え本お持つて行く」と書く方がよりよく、事實「現代かなづかい」全文においては「は」「へ」「を」を本則とするとあつて、「わ」「え」「お」を否定してゐない。それを誤りとなす根據がないのである。それなら、次の時代に「わ」「え」「お」を本則とするやうになつても、「は」「へ」「を」を誤りとなす根據もない筈である。既に今日においても、「現代かなづかい」を本則としてゐるだけのことで、歴史假名遣を誤りとなす根據はどこにもない。「行こう」を「行かう」と書く方がたとひ常に難しいとしても、ある時にうつかりさう書けてしまへば、それは決して難しくはない。「行こう」を常に「行かう」と書いても、或いは時々「行かう」と書いても、それをどうして誤りと言ひ得るか。「かう」はkauであり、auをオーと發音するのは世界的に自然な現象であつて、それが非表音的だとは言へない。「かう」は明かに表音的な表記であり、世界中がこれを難しいとは認めてゐない。誰かが「行こう」を時々「行かう」と書いても、更にまた常に「行かう」と書くにに至れば、どうしてそれを誤りと言ひ得るか。難易を目やすとする以上、傳達にいささかも支障を來さぬかぎり、それを誤りとはしがたいばかりでなく、むしろそれを誤りとするからこそ難しくなるので、それでは却つて難易、便宜の主旨に背くことにならう。


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