『今後の問題(その四)』(7‐47‐4)

これらの事實がもつ意味の重大さは、單に「父さん」「亭主」に漢字が用ゐられるやうになつたからといふことにあるのでもなければ、また個々の諸例において必ずしも漢字表記の方が妥當であるいふことでもない。肝腎なのは、各新聞社が國語審議會や文部省の強制、あるいはそれに對する依頼心から脱却して、妥當な表記法を自主的に探り求めようとし始めたといふ事實である。さうなつたのは、官製の當用漢字や音訓整理が敗戰の混亂期に十分な調査研究を經ずして行なはれた杜撰きはまるものであり、しかも國字の表音化を目指すものであるといふ認識によるものであらうが、更に當用漢字にせよ音訓整理にせよ、いづれも劃一的に上から與へられるべきものではなく、國民がそれぞれの必要から實驗し發見して行かねばならぬものであるといふ自覺に發したものと思はれる。その意味で、朝日新聞社が四十七名から成る用語委員會を設け、漢字の處理について研究を始めたことは、甚だ好ましい傾向と言へよう。なほ同社では、假名遣に關しては、改革後の「現代かなづかい」の當否は別として、その通用に差當つて混亂は生じないと見做し、そのまま繼續使用することとし、その本質的、乃至は歴史的な問題は專門家及び新審議會の長期檢討に委ね、納得しうる結論が出たうへで、改めてその採否を決めるといふ方針に落ち着いた模樣である。

要するに、戰後の表記法改革は原理的にも現實的にも、また手續の上から言つても、全く受容れがたいことが誰の目にも明らかになつてきたのであるが、大事なことはその事實によつて刺戟された國語問題に對する一般國民の關心を逸さぬことである。言ひ換へれば、現在の混亂と矛盾とを正すために、彼等に納得のいく成案を示すことである。が、それは過去の國語審議會に代つて直ちに名案を提示することを意味しない。或いは國民はそれを要求するかもしれぬ。しかし、そのやうな名案が二年や三年で得られる筈はない。むしろ、名案が直ちに提示しえぬところに、我々の國語の本質と歴史とがあるのであつて、戰後の改革がそれを無視して明確な成果を示し、それに踏切つたために混亂と矛盾とが生じたことを明かにしなければならない。と言つて、無爲無策であつてよい筈はない。我々のなしうることは、國語の本質と歴史を明かにし、それを破壞せぬ限りにおいて何等かの解決に到達するやう、その方向を示すことである。解決を急いではならない。また幾つか考へ得る解決案のうち、その一つを絶對のものとする立場に立つてはならない。大事なのは問題の解決ではなく、問題の所在である。



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