『國語問題の現代的展開』(七の27)

 昭和二十九年八月、民主主義科學者協會の言語部會監修で『國語問題の現代的展開』(理論別册學習版・第W集)が刊行された。山崎謙は先づ「職業哲學者のインテリ本位、講壇哲學者の大衆無視、これがそもそも、哲學をわかりにくいものにデッチあげてしまった元である」として、「ひどいのになると、用語の難解さをとり去ったら、何もなくなってしまうというのすらある。たとえば西田哲學だが、あれがもしローマ字でつずられることになったら、いったいどんな内容があとにのこるのだろうか」と、西田哲學を否定し「およそ哲學の尊嚴なぞというものは、そんなていのものである」と言切つてゐるが、たとい山崎にとつて西田哲學が無用であるとしても、山崎の言葉は、西田哲學をローマ字や話し言葉で理解させることの不可能な所以を、そのまま證明するものである。
 藤村三郎は「封建制度がくずれて、資本主義制度がかたちつくられる道すじのなかで、人びとは民族にまとまって、民族のコトバ(共通語)をつくりだします」と説明し、次いで「一語でもよい、それだけ漢字・漢語をへらせば、それだけツタエアイのハバをひろげることを、わたしたちはわすれてはいけないのです」「漢語がまじっているので、日本の書きコトバは民族のコトバになりきってはいけないのです」「漢語がまじっているので、日本の書きコトバは民族のコトバになりきっていない」と述べ、更に「當用漢字のさだめヌシが吉田茂君であったことは、漢字制限が反動的な資本家・地主の一時なヒッコミにすぎないことをものがたっています」と述べてゐる。
 またマツサカタダノリ(松坂忠則)は、當用漢字表の補正を審議した漢字部會に「ふやす意見がドッサリ持ちこまれた。そして、部會の空氣は、全部の注文を入れようというのが支配的であった。わたしは大いに驚き、あわてた。いったい、諸君は當用漢字の趣意を何と考えているのか、一八五〇字すら義務ヘ育では覺え切れないという實状を知らないのか、と、部會のたびごとに、ほえ立てた」と述べ、「世を挙げての反動化の一連の現象」の代表的な一例として、人名用漢字九十二字の追加を擧げてゐる。次いで漢文必修論に反對し「コウシさまは、えらい人かもしれないが、コウシさまが、こうおっしゃったから、そう心得ろというのはこまる。第一、コウシさまの時代には、近代民主主義というものはなかった」「學生が、必要も感ぜず、すきでもない漢文を、そういう制度にしくんで強制することくらい、コウシさまの仁の精神に反することはない」と述べてゐるが、松坂が孔子の仁をこの程度にしか理解できないのはやむを得ぬとしても、學生が必要を感じ、好きでもある科目とはどんなものなのか、またそのやうな科目だけを學ばせるのがヘ育といふものであるのか、反省する必要があらう。
 また昭和三十年五月、近代知京助の『言語學五十年』が刊行された。本書は主として戰後雜誌や新聞に發表した諸論を収めたもので、「國語改革」中の「現代假名遺論」は既に紹介したものである。


 


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