金田一・桑原の反論(七の25)

 右のやうな小泉信三の意見に對し、金田一京助は四月『中央公論』に「現代假名遺論」――小泉信三先生にたてまつる――を、桑原武夫は『文藝春秋』に「みんなの日本語」――小泉博士の所説について――を發表し戰語の國語政策を辯護した。金田一は先づ「私どもの平素崇敬措かない先生の高説」「その一言一言には、慈父の訓戒のように胸にせまる響があつて、深く深く心を打たれました」とか「よくこそおつしやつて下すつたと、頭がさがります」とか「先生の前には、吹けば飛ぶような存在でしかありませんけれども」といふやうな慇懃尾籠な調子で始め、七歳の學童が學校に上るや「まず學ばしめられるのが實に一千年前の古典假名遣だつたのです。可哀相に、一千年前の綴りと言つたら、イギリスなら古典英語、アングロサクソンの綴りです」と例の俗論を持出してゐるが、一千年の前の假名遣が今なほ普通に使用されてゐるといふのは、何も痩我慢してゐるわけではなく、アングロサクソンの綴と比較すれば、遙かに容易であるためである。また「遺憾な御誤解」として「今囘の新假名遣案には、どこにも『表音式假名遣』にするとは言つていません」「目標としていますのは、『現代假名遣』の創始であつて『歴史的假名遣を改訂する』のでも、『表音式假名遣にする』のでもありません」と述べ、「現代假名遣を創始する」「現代語音に基ずく」といふことを強調してゐるが、これは單なる言葉の上の遊戯に過ぎない。金田一自身「發音が歴史的に區別が無くなつて來たら、それに應じて區別無しに書くべきだ。これがすなわち現代假名遣の出発點であります」と述べてゐるのである。このやうな主張に基づく假名遣を一般に發音式とか表音式とか呼んできてゐるのである。金田一を宗祖とする現代假名遣を別に創始するのは勝手だが、それは野にあつて行ふべきであつて、政治權力などを借るべきではない。政治と結びつくことは、現代假名遣ヘを國民に強制することになるからである。
 一方、桑原武夫は二十三年八月に實施された日本人の讀み書き能力調査の結果から、表記法がむづかしいといふ結論を導き出し、それはエネルギーの徒費であるとして、「日常生活でも一千年前のかなづかいを守れというのでは、話が無理ではなかろうか」と歴史的假名遣に反對し、「占領下にできたものでも、それがよいものなら、いたずらにナショナリズムに走らず、これを守りたい」と「現代かなづかい」を支持し、最後を「現代において一つの政策を三年五年論じ、もし一致が得られなければ改正を思い止まれというのはムリである。それではあらゆる改正は行われえないであろう」と結んでゐる。
 また同年三月三十日の日本經濟新聞で、河上徹太カは「金田一、桑原兩氏の駁論は、落着いてゐて、周到であり、正論である」が、私自身舊假名遣を墨守してゐるのは、それが「自然」で、「さう感じる必然性が舊假名にある」からであるとし「言葉といふものは、硬貨のやうに民衆が使つてゐるうちに角がすり切れてゆく。それは方向として單純化の方へ向ふものである。それに任せるべきで、規則で禁令を作つてはいけないのである」と述べてゐる。

 


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