小泉信三の「日本語」(七の24)

 昭和二十八年二月、小泉信三は『文藝春秋』に「日本語」を發表し「吾吾■はもつと日本語といふものを大切に扱はなければならぬ」「近年、文化財の保護といふことが重視されてゐるが、吾々の護るべき第一の文化財は、日本語そのものでなければならぬ筈と思ふ」と述べ、次いで

 *吾々は過去の時代に向つて語り、未來の時代から聽くといふことは、出來ない。けれども、過去の時代に書かれたものを讀み、未來の人に讀まれるものを書くといふことは、出來る。さうして、それが文字といふものを有する人類の、至大の幸福に數へられる。*この點からいふと、國語の連續性不變性が望ましいといふ結論が出て來る。同時に、語られる言語とが、或る程度離れるといふことを承認する理由も立つであらう。

と論じ、假名遣問題を白紙に戻すことを主張すると共に、改定の時期が不適當であつたことを指摘してゐる。また漢字問題については

 *數學記號も、それを知らないものには厄介であり、知つたものにはこの上もなく調法である。+、−、×、÷、√、Nn 、■、=等々は、どれもそれぞれの國語を以てその意味を現す讀み方をしてゐる。若しも文字は發音を記すをよしとし、意味を現すは正道でないとするならば、數學記號は明らかにその要求と相反する。而かもこの一種の文字のある爲めに、人はどれ程その思考と表現とを助けられ、進められることか。數學記號も數學式も、共に一種の文字又は文章であつて數學式に現されてゐることは、強ひて普通の文章に書き直して直せぬことはない。けれども、それはどんな長たらしい、煩はしいものになるであらう。*私は漢字と數學記號とを同視するのではないが、小さい面積に多くの意味を現すに適した漢字漢語は、數學記號に類する一面があり、その限りに於て吾々の思考と表現とを簡約化し促進する功徳のあることを看過すべきでない。

と論じている。

 


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