石黒・服部・阿部の意見(その七の20)

  昭和二十五年一月、石黒魯平は『標準語』を刊行し、第一篇において「東京語即標準語觀」を否定し、「東京語を土臺にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使をオと、日本民族各員が追求する理想的言語體系、之が標準語であると言ツてよかろオ」「標準語わ日本語生活者の軌範言語である。だがそれわ既成品でわない」と述べてゐる。また石黒は音韻文字の採用に反對し、漢字の偉大さは形聲にあるが、私の漢字不可廢止は「形聲」の妙には關係なく、「むしろその全體の特色たる表語性にある」と述べ、更に「現代かなづかい」を批判した後、獨自の假名遣の説明を行つてゐるが、それによると「それくらいのこと、僕だッて少し勉強しさえすれば」「先そオよオこオろオ」「おかさん」「(居)る」「(言)いう」「出」「(今日)きョオ」「本を買をオ」「宜しうご」「(地震)しん」「(藤)ふ」といふやうに表記するわけである。

  同年二月、服部四郎は『國語と國文學』に「『現代かなづかい』批判」を發表し、より表音式に改訂すべきであると主張した。理想的改訂案では「は、へ、を」を「わ、え、お」、「おう、おお」を「おー」、「えい」を「えー」としてゐるが、實用的改訂案では「わ、え、を」「おう」「えい」としてゐる。また、津田左右吉、美濃部達吉の論文を批判してゐるが、それは文字と發音とは一致すべきであるといふ前提に立つてをり、さうすることにどれほどの意味と價値とがあるかといふ根本の問題には答へようとしてゐないし、語としての歴史的一貫性とか自律性とか、さういふ文字の負ふべき宿命的な本質に觸れるやうな考察が見られないのは甚だ遺憾である。

  同年四月、阿部次郎は『改造』に「假名遣問答」を發表し、「現代かなづかい」について「便宜第一、怠慢第一の綴字法からは現代語の言語的成長――人間の魂の成長を標識する機關としての言語は育つて來ない。たかが商用日本語、買物用日本語の學習が便宜を増すぐらゐのところだ」と批判し、更に「現代かなづかい」は「國語を古典語と現代語とに兩分して、一系の日本語の連絡を中絶する」「血族關係ある語群の脈絡を斷絶して各語をばらばらなものにする」「特に用語の本來の組織を破壞する」「それでなくても同音異語の多い日本語を、綴字法の上でも本來の差別を拂拭して益々區別の立ちにくいものにしてしまふ」等の難點を具體例を添へて説明すると共に、國語の歴史的假名遣の容易であることを強調してゐる。

 


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