橋本進吉の主張(その六の35)

  右の藤村・倉野と同じやうな立場から假名遣について論じたものに、十五年十二月『國語と國文學』に發表された橋本進吉の「國語の表音符號と假名遣」がある。本論文は「假名は單なる音聲の代表でないとする立場から、音聲を代表すべき表音符號制定の必要とその方法とを論じ、且つ表音符號と假名遣との本質的差異を明かに」しようとしたものである。橋本は、表音符號を定めるに當り、「日本語を音として分解する場合に、誰でもが到達し得る最小の單位は、單音でなくして音節である」といふことを言語意識といふことで説明し、結局表音符號として片假名を支持してゐるのであるが、假名遣については

* 全體、言語は意志を交換し思想を傳達する爲のものであるから、その目的とする所は意味に在つて、音聲や文字に無い。勿論音聲や文字は大切ではあるが、それは意味を示す爲の手段として大切なのであるから、文字言語としては、その文字の形によって意味が明瞭に了解せられればよいのである。その爲には、同じ語は何時も同じ文字であらはれるのが理想的である。假名遣は、かやうな理念の下に起つた、文字言語に於ける假名の用法上のきまりであつて、同じ語は誰が書いても同じ字で書くやうにさせ る事を目標としたものである。

と論じ、「必ずしも一々の文字が正確にその一つづきの音の一つ一つの部分を示さなくともよいのである」と説き、次いで表音符號の性格を明確にし、その制定に當つては、言語を用ゐる人々の言語意識を基準にすべきこと、即ち主觀主義の立場に基くべきことを主張し「文字言語としての文字の形はそのまゝにしておいて、その音は別に表音符號を用ゐて文字の傍にでも加へて示す事にすれば、文字言語の形を破らず、しかもその正しい讀み方を示すことが出來るのである」と述べてゐる。確かに、歴史的假名遣を改めるよりも、發音を示す一便法として表音符號を制定する方が、歴史的な文字言語の形を破壞せずに濟むのであるから、解決策としては遙かに優れてゐると言へる。


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