子供雜誌の規制と頼の『國語・國字問題』 (六−31)

  内務省は,昭和十三年十月十五日、山本有三、城戸幡太郎、波多野完治などを招いて懇談會を催し、モれに基き二十七日少年少女雜誌の編輯者を集めて「子供雜誌編輯改善要項」を示し、その善處を要望した。それによると「六號及ビ八ポイント以下ノ活字ノ使用」を廢し、「幼兒向ノモノニアリテハ十二ポイント以上」で「振假名ノ使用」を廢するが「特殊ノモノ、固有名詞ハコノ限りニ非ズ」とし、振假名の「廢止ニ因リテ行間ヲ詰メルコトナキ様注意スルコト」「用語ハ年齢ニ従ツテ漢字ヲ用ヒ、教科書ノ範圍ヲ出デザルコト」となつてゐる。活字の大きさを規定したことはともかく、「用語は・・・・・」としてゐるのは全く理解に苦しむ。この規定が忠實に實行きれれば、兒童は教科書以外の書物から、言葉や文字を學ぶことが出來なくなるわけである。

  同十三年九月に刊行された山田孝雄の『國語尊重の根本義』は、文部省での講演の筆記や新聞雜誌に發表した諸論文を一册に收録したものである。

  また、十一月に刊行された頼阿佐夫(平井昌夫)の『國語・國字問題』は「國語・國字問題の豫備知闊」「國語・國字の歴史的展望」「國語・國字問題の理論」の三部から成つてゐる。平井はその序で「國語・國字間題のように、花花しくはないが及ぼす範圍の大きい廣い問題の解決は、平和な時の平和な申合せでは成し遂げられることが難しい」と並べてをり、國民の頭が正常である平時には實現不可能であるから、革命戰亂の混亂期を利用し、「平和な申合せ」ではなく、權力を以て國語國字改革を斷行する以外に實現の望みはないといふわけである。次いで「言語と文字」において、「文字は言語の出來ぬ前には在り得ない」「わが國ん意に於てすら文字を知らない大人を探さうと思えば探せるし、就學以前の子供は文字を習わない前に日本語をあやつつてゐる」といふことを理由に「言語と文字は別である」「文字は思想ではない」「言語が主で文字は從だ」といふ結論を導き出してゐるのであるが、一度文字(綴字)が作られると、その後は言語とは別にそれ自體の生命を保有するやうになる。時には、明治初期の飜譯語のやうに、先づ文字として、次いでその文字を通して言語として成長して行つたものもある。かうした文字の造語性が言語の健全な發達を促進させるのであり、言語だけの力によつて美しい豐かな國語が形成されるとは思はれない。

  同じく十三年十一月に刊行された五十嵐力の『國語の愛護』は、國語國字問題を正面から論じたものではないが、五十嵐は、以前假名及べローマ字に失望したことにつき「私にまたローマ字使用を理想と思つたことももありました。そして暫く二三のローマ字の雜誌などを讀んで見、またをりをりローマ字で手紙などを書いて見ましたが、暫くではあるが實際書いたりした結果すつかり失望してしまひました」と述べたことのある國文學者である。


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