漢字廢止論批判 (六−24)

   昭和十一年七月『國學院雜誌』は「漢字廢止論批判」を特輯した。.その二、三を紹介すると.澤田總清は、先づ平生文相の漢字廢止論を批判し、「漢字廢止論は歐米崇拜の僻説であつて」「却つて經濟上莫大なる弊害を齎すものであつて吾人は飽くまでも廢止論の絶滅を期する者である」と述べ、藤野岩友は、平生文相の漢字のために小學教育が二年間空費されてゐるといふ論に對して

* 我々は、我々の祖先が殘された精神的遺産の繼承と、新時代の文化の創造といふ二重の義務を負ふてゐる。この義務は、一部指導者階級にのみ課せられたものでなく、國民全體に懸かる負擔である。この負擔に堪へ得る能力を養ふには、どうしても漢字を我が物としなければならない。その爲に國民全體が費す二年間は決して無益な犧牲ではない。勿論、漢字を通しての了解は、深くも淺くも各人獨自の境涯があるべきだが、國家全般の力の實現として見る時に、民衆自體が隔離することは許されないのである。

と論じ、今泉忠義は、「漢字の使用は既に必要以上のところまで達してゐる」「尠くとも言語文字などについて云々する場合には、單に表皮に現れる初等教育の事象を標準としてのみ考へて貰ひたくないものだ」と述べてゐる。

  同じく十一年七月『日本及日本人』は「漢字廢止論駁撃」として、山田孝雄、岡井愼吾、松本洪、岡本綺堂、赤堀又次郎、伊藤松雄、金杉英五郎の意見を掲載した。松本は「あれ程の人數がかかゝつて騒いだ漢字廢止論が一體何程の效果を齎したらうか」として

* 假名や羅馬字が事實便利でもあり有益でもあつたら、一面如何に有力な反對があらうとも、それを物ともせず、滔々たる勢もて天下に氾濫し來る筈である。然るに羅馬字も假名文字も七十年苦心の宣傳が未だに寸功なく、唯漢字ばかり依然として舊勢力を保持せるのみならず、日日に新熟字さへ増加して、活字の鑄造に維れ日も足らぬといふ状態である。

と論じ、次いで平生文相の假名文字論を批判し、赤堀は「漢字廃止は實行出來ぬ。文部省の力にて制限する事も出來ぬことは明になつてゐる」と述べ、岡本は

* 由來、國字や國語の變遷は自然の淘汰に待つべきものであつて、人爲的に突然改變すべき性質のものでは無い。漢字が若し不用ならぱ、長い年月のあひだには自然に消滅するであらうから、漢字廢止論者はその自然を待つの外はない。

* 一體、小學時代に多數の漢字を習得すれば、それほどに兒童の頭腦を疲勞させるものであらうか   * 馬鹿と悧口は其人の天賦であるから、漢字を習つても習はないでも、馬鹿は馬鹿、悧口は悧口で、漢字教育には無關係であると思ふ。漢字制限以前の教育を受けた者は、總てが馬鹿で短命で、制限以後の教育を受けた者は、總てが悧口で長命であると決まればぽ幸ひである。

と論じてゐる。


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