五 大正時代の國語国字問題

『東亞研究』の特輯 (五の1)


  大正元年八月『東亞研究』は「ローマ字反對論」を特輯した。金子堅太郎は、ローマ字論者の主張を一つ一つ論駁し、ローマ字文は「了解し難き處甚多し。何といふ字を示したるものなるや考へて僅に了解すれども、夫さへ解し難きこと尠からず。且つ之を讀過するに必ず一字一句をたどりて頗る長時間を要す」と述べ、肝付兼行は急激なローマ字化と漢字廢止に對する疑問を提出し、星野恆は「漢字は一字一字に音義あるが故に、羅馬字に比すれば習得に困難なるも、既に覺え込みたる上は、記憶に易く、運用に重寶なれば、一勞永佚と云ふべきものとす」と述べ、漢字とローマ字の得失を比較し「羅馬字問題は,前年福澤諭吉翁が唱道せるH本人種改良論と同じく言ふべくして行ふべからざること明々白々なり」と結論してゐる。また佐藤鐵太郎は、「私はローマ字を頭からけなすものでは」ないが「ローマ字は哲學とか文學とかいふ思想界にその手を伸ばし、かういふ方面の製作物をつくるのには決して適したものでないといふことは斷じて疑はないのです」と述べ、戸水寛人は「ローマ字を國字と爲さうなど云ふ議論は到底議論とするの値はない」「私ほ寧ろ象形文字の方が文字としての效果は大であると思つて居る」「日本はかくの如く漢字があり假名がある。即ち東西兩洋の長所を併有するものである。モれを棄てゝ西洋は文明國であると云ふ所から、一圖に西洋の眞似をしやうとするのは、西洋心酔の餘弊である今日に至りて未だこの迷夢が醒めない樣では困つた者である」と述べ、高橋作衛は最近誤字を書く者が多いといふが「ローマ字にて音のみを記すは、誤謬を假に葬るに過ぎざるの弊害ありて、決して誤謬を絶滅するにあらず、誤謬を假に葬れば、直に人目に觸れざるも、かくて人の注意をひかざる誤謬の弊は、漢字の誤字の弊よりも一層大なり」と述べ、美濃部達吉は「羅馬字論者は多くは文字と言語とを無關係な別のものと考へて」ゐるやうだが、言語と文字とは「互に離るゝことの出来ぬ密接の關係を有つたものである」とし、また法律、政治、道徳、宗教等は歴史的潮流に背反して人爲的に改造しようとしても失敗に終る外にないが「況や.言語及び文字は、總ての社會現象の中でも、歴史的勢力に影響せらるゝことの最も多く、人爲的に之を左右する事の最も困難な者である」と述べ、服部宇之吉は、ローマ字では「一を以て他を推すに便ならざり場合多く、道理によりて記憶せんこと甚だ易からず」「ローマ字にて綴れば意義を區別するに困難なる場合甚だ多」〈、且つ「ローマ字にても僅少なる用筆の相違にて字義字音を異にする」判別の困難なものが多いが、「漢字は書く場合に多少不便なることあれども、讀む場合に便利なるものあり」と述べ、内藤素行は「ローマ字にうつらんとするは徒に新奇を好む者と評するの外なし」と述べ、深井鑑一郎は「咎むべきは漢字か人か」と題して、むしろ咎むべきは人であると説き、林泰輔は藥學者醫學者の態度と比較して「今の漢字排斥論者は、漢字に對して精密なる顕微鏡的検査をも爲さずして、何等の知識なき素人の考を以て、直ちに毒物なりと速斷し、且勅令省令をも利用して之を禁ぜんとするが如きは、果して社會を指導すべき上流人士の行爲といふべきかか」と批判し、岡田正之は「國字問題は形式にあらずして、性質にあり、空論にあらずして、實際にあり、口先にあらずして、筆先にあり、卿等は何ぞ姑く政府に依頼するものを止めて、其の一身に依頼せざる、何ぞ姑く小學生徒を犠牲とするを止めて、其の一身を犠牲とせざる」と非難し、宇野哲人は「若し我國の國語から一切の漢字を除去したならば遺憾ながら我が國語は非常に貧弱なものである」「突飛な空論を振り廻して徒に大言壮語することは止めて貰ひたい」と述べ、佐久節は「論より證據、ローマ字が廣く行はれぬのは、ローマ字に漢字以上の不便が件ふからである」「ローマ字論者は書く時の事ばかり考へて讀む時の事は一向に考へない様てあるが、讀む時の困難は恐らくは漢字に數十倍するであらう」と述べてゐる。


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