菊池謙二郎の論駁    (四の30)

  明治四十年二月、菊池謙二郎は『教育界』に「羅馬字問題」を發表した。
  菊池は先づ漢字交り文は學習に困難であることを認めるが、それは歐米に對比してであって「羅馬字で書いた日本文を學習するよりも困難であるといふのではない」として、ローマ字で書けば讀むのに容易だと言ふが、その意義を知得したのでないから眞に讀めたとは言へないこと、「音符的文字は形象的文字に比べると餘程記憶し難い」こと、漢字で書いた方が意義を理解し易いことなどについて、いくつかの例を以て説明した後、「漢字を使用する時は始めて新熟語に逢着しても略々想像がつくことが多い」が.ローマ字では想像もつかなければ、記憶もむづかしい、また「不孝の子」と「不幸の子」といふやうな無数にある同音異義語の区別を.ローマ字ではどうしてつけるのか、加へてローマ字では語源が全くわからなくなつてしまふばかりでなく、自國の古典を失ふことになると論じ、更に歐米に日本語を普及させるためにはローマ字の方がよいと いふ論に對して、「歐米人を主位に置いて假字漢字を全廢する議論」であるから反對せざるを得な いと論じてゐる。

  菊池は同四十年五月再び『教育界』に「羅馬字問題(再)」を發表した。これは、田丸卓郎が『教育界」に發表した批判に對して更に反論を試みたもので、「假字で書いても宜い所に漢字を當てゝ田 丸君の攻撃を受くるやうになつたのは」漢字にはそれ相當の長所があるからで「一面に於ては漢字 の便利なることを自然に證明して居る」やうたものである、と述べ、次いで英語の to measure, to weight, to survey, to plan, to consult 等に對し國語には「ハカル」一つあるのみであるが、漢語には「度、量、測、謀、商」等、英語に相當するものがあり、「漢字を借用すれば思想が明白にな る、是即ち漢字が調法で有效なる點である」と論じ、漢字を擁護すると共にローマ字論の非を明かにしてゐる。

 


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