國語調査委員會の設置   (四の22)

   明治 三十五年二月八日、文部省は國語調査委員を廢し、三月二十四日、國語調査委員會の官制を發布した。當時の總理大臣は桂太郎、文部大臣は菊池大麓であつた。官制第一條には「國語調査委員會ハ文部大臣ノ監督ニ屬シ國語ニ關スル事項ヲ調査ス」、第二條には「國語調査委員會ハ委員長一人委員十五人以内ヲ以テ之ヲ組織ス」とある。なほ同年四月十一日、委員長に加藤弘之、委員に井上哲次郎、上田萬年、大槻文彦、嘉納治五郎、木村正辭、澤柳政太郎、高楠順次郎、重野安繹、徳富猪一郎、前島密、三上參次、渡部董之介の十二名が任命され、主事には上田が指名された。また九月二十五日に芳賀矢一が委員に加へられた。なほ當初の主査委員には上田と大槻がなり、補助委員には林泰輔、保科孝一、岡田正美、新村出、大矢透が任命された。その後、前島は依願解任となり、重野、木村は死亡し、金澤庄三郎、藤岡勝二、大矢透、服部宇之吉、松村茂助、田所美治の六名が委員に任ぜられ、山田孝雄、龜田次郎、神田城太郎、榊原叔雄、本居清造の五名は補助委員又は調査事務囑託となり、元良勇次郎、松本亦太郎、佐藤誠實、新村出の四名は臨時委員に任命されてゐる。

  國語調査委員會は、三十五年四月から六月までに九囘の會議を開き

* 一   文字ハ音韻文字(「フオノグラム」)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト

   二   文章ハ言文一致體ヲ採用スルコトヽシ是ニ關スル調査ヲ爲スコト

   三   國語ノ音韻組織ヲ調査スルコト

   四   方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト

といふ四つの調査方針を決定すると共に、「目下ノ急ニ應センカタメ」に「漢字節減ニ就キテ」「現行普通文體ノ整理ニ就キテ」「書簡文其他日常慣用スル特殊ノ文體ニ就キテ」「國語假名遣ニ就キテ」「字音假名遣ニ就キテ」「外國語ノ寫シ方ニ就キテ」といふ六つの調査項目を決定してゐる。右のやうな調査方針が打出されたことは、委員會設置までの經緯と委員の顏ぶれから判斷すれば、それほど豫想外なことではないが、それにしても漢字全廢には異論なしと判定した委員の非常識には驚かざるを得ない。一國の文字を變革しようといふ大事な場合に、表意文字と表音文字との比較調査も行はず、いきなり「音韻文字ヲ採用スルコトヽシ」などといふのは正氣の沙汰とは思はれない。たとひ比較調査した結果が、日本語を表記するのに表音文字の方が優れてゐることが判明したとしても、それはそのまま改革に繋がるものではなく、判斷の一材料に過ぎないものである、にも拘らず、臨時國語調査會にも國語審議會にも、そのままその基本方針が受繼がれてきてゐる。勿論露骨に意圖を示してはゐないが、その精神は全く同じものである。むしろ眞の意圖を隱すために看板を塗り替へたに過ぎないと見るべきであらう。國語調査委員會は右のやうな急進的な看板を掲げながら、仕事の内容は極めて基礎的な學究的調査に徹底し、急いで改良案を作成しようとしなかつたのに對し、その後の國語審議會は改革の意圖は明かに示さず、簡單な調査を以て直ちに改良案を作り、實行面にのみ力を注いできた憾がある。

 


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