市村瓚次郎の意見   (四の18)

  市村瓚次郎は、三十三年七月『言語學雜誌』に「文字と言語との關係」を、『太陽』に「國字改良の先決問題」を發表した。前者は、五月十九日に帝國教育會で行つた演説中より「文字と言語との關係」の一節を拔きそれを増補したものである。市村は、先づ言語は單音語と復音語に、文字は義字と音字に大別できるとし、西洋において義字から音字へ推移した事實に觸れ、支那にも音字の發生すべき機會は絶無ではなく「第一は佛教の流行と共に印度悉曇の音字が輸入され多くの經典が飜譯されたる時」「第二は元の世祖が巴思巴文字即蒙古文字を採用して各地方に字學を設け強制的に教授をなしたる時」の二度までその機會があつたにも拘らず、音字が發生しなかつたのは何故であるかと自問し

* 然る音字が支那に發生せざりしは支那語をあらはすにつきては義字の便利に及はざりしが爲めなりとす   何となれば支那語は單音語なるが故也   支那語は大抵一字に一音一義を有し假名にて綴れば二字或は三字に過ぎず羅馬字にて綴りたる五字以上に過ぐる音なきが故に其變化に限りあり

* 然れども動詞に二字以上を用ふることは反て不便なるが故に其變化も亦限りあり   且四聲の區別は音の區別にあらずして調の區別なり   故に言語にては區別をなし得可しと雖も音字にて記録する能はず   設令幾分をうつし得ても多くの「アクセント」を用ひざる可からざるが故に其不便は遂に免るゝこと能はず

とその理由を説明し、その傍證として朝鮮における文字の變遷を述べ、次いで日本に假名の發生した原因を明かにした後

* かくの如く漢語を全く除き去るの不可なるのみならず實際除き去る能はさるものとすれば將來の日本語漢語の混用さるゝは明にして即單音語と複音語との混合に外ならず   果して然らば現在及ひ將來の日本語を寫すには複合語に適する音字と單音字に適する義字を以てすること最便利なりとの斷定を下すを得可し

と論じ、漢字假名交り文の合理的であることを立證した。この論文は極めて學理的な異色あるもので、淺薄な國字改良論とは格段の相違がある。

 

 


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