井上哲次郎の改良論 (四の4)

  明治三十一年九、十月の『太陽』に、井上哲次郎は「國字改良論」を發表し、「要具たるに過ぎざる」文字は便利でなければならぬといふ立場から、漢字の利害を考察し、漢字の長所として「第一、漢字は恰も圖書の如く、可見的なり」「第二、漢字の音頗る遒勁なるを以て國語の冗漫にして動もすれば輙ちwpe3.jpg (901 bytes)弱に陷り易きを救ふに足る」「第三、漢字は擇んで之を用ふれば、簡捷なり」の三項を擧げて略述した後、漢字の弊害として「第一、漢字は記號字なるが故に、全く記憶に依頼するより外なきなり」「第二、漢字は記號字なるが故に視覺により之を識別すること多しとす、即ち直觀に訴ふるもの多きに居る、音符字は形状の殊更に注意を惹くに足るなく、聽覺によりて直に思想を觸發するを得、故に音符字は思辨考索には適切なり、記號字は人を感覺の方面に導くの傾向あるが故に思辨考索には適切と謂ふべからざるが如し」「第三、漢字は又單音の字なるが故に同音の字甚だ多し」「第四、漢字は單音の字なるが故に音符として極めて不便利なり」「第五、漢字を用ふる時は支那の文學に支配さるゝことを免れず」「第六、我國民が漢字を採用し之れを便とするは、國語の發達上に甚しき妨あり」の六項目を擧げ、それぞれについて説明を加へてゐるが、いづれも見當違ひのものばかりである。文字は視覺に訴へるものであるのに、「聽覺によりて直に思想を觸發するを得、故に音符字は思辨考索に適切なり」といふのは實に亂暴である。一々聽覺によらねばならぬとしたら、音符字は極めて不便なものであると言はねばならぬ。理解といふことを主とした場合、意字が音字に優ることは明かである。即ち音符字を以て「サン、カケル、ロク、ハ、ジュウハチ」とか「サンソ、ト、スイソ、カラ、ミヅ、ガ、デキル」などと表記するより、記號字を以て、3×6=18,2H2+O2→2H2O と表記した方が、どんなに理解し易く「思辨考索」に適切であるか説明するまでもあるまい。詰るところ、井上の主張は「到底平假名より新國字を製すること能はざる場合に於ては、速記字を用ふることを勸めん」といふことになる。ところで、我國の速記術の基礎を築いたと言はれる田鎖綱紀は、三十二年二月の「速記術を制定したる所以」において、「文字は最初人間が製作したものなら、之を人間が改良するのが、人間たるものゝ當り前の義務である」と述べてゐる。

 


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