木村鷹太郎の改良假名 (三の26)

  明治二十八年四から四囘に亙り、木村鷹太郎は『教育時論』に「日本文字改良案」を發表した。木村は横書きの片假名改良文字を提唱してをり、今日の假名文字論の先驅とも言ふべきものである。

  木村は、漢字が不便であることを主として教育上より論じ「吾人の小學期は殆ど文字を覺ゆることに之を費すものと云ふ可し」と述べてゐるが、文字を覺えることだけに小學期を費してゐるのではなく、文字と共に言葉を、言葉の正しい用法を學んでゐるのであるから、漢字にあつてはあまり文字といふ言葉に捉はれない方がよいのである。歐米のやうな二十六文字ほどの表音文字を覺えるのに數ヶ月あれば十分であるのに、他方は小學期を費しても足らぬなどと云ふのは、故意にする邪論か、無智による愚論であるといはねばならぬ。

  木村は自分は再び假名の會を興さうとか、ローマ字を唱へようとか、新改良文字を創造しようとするのではなく、「只日本が從來有し來りたる最も便利なる文字を取らんとする」のであるとして

  * 我日本には平がなのみに非ずして、又片かなを有することを忘る可からず、平がなの會は失敗したるも、片かなの主義は未た試みられざるなり、(故に未だ失敗の歴史を有せざるなり、)是を以て、文字改良論者は必ず片かなを其心念に浮べざる可からざるなり、

と論じ、「片かなは素より平がなに比すれば其美を缺くの嫌ひなきに非ずと雖、其字形の簡單にして書寫速かなるは平がなに優れりとなす」といふ理由から片假名を主張してゐるのであるが、「書寫速か」で「失敗の歴史」がないといふだけでは、その理由があまりにも貧弱である。木村は、改良文字の活字體と筆記體とを提示してゐるが、片假名の原形をとどめてゐるのは半數位で、他は一寸判讀しかねるほど不自然な字形になつてゐる。

 


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