「言語取調所」の設立 (三の20)

  明治二十一年十二月、黒田太久馬は、宮地嚴夫、福西四郎左衞門と共に「言語取調所」を設立し、言語の本體を明かにし、「博言學を起すこと、又文法を作り、辭書を編み、修辭書を著すこと」、及び「普通の文體を定め、あまねく讀書の便を得しむること、或は發音法、ことばの使用法等を研究して、談話法を定むること」などを事業とした。會長には伊達宗城、副會長には高崎五六が就任し、上田萬年、落合直文、岡倉由三郎など十數名の者が取調を擔當し、二十三年五月に雜誌『言語』を創刊してゐる。

  明治二十三年十一月、日本盲點字に石川倉次の案が採用された。點字は、一八〇八年フランスの軍人シャルル・バルビエによつて考案されたが、バルビエの點字は六點二行の合計十二點からなる不便なものであつた。その後、フランスのシモン・ルネ・ブライユといふ盲人が、一八二五年、三點二行の合計六點のものに改めた。石川の採用したのは、三點二行の點字で、ヤ行とワ行以外は極めて組織的に作られてをり、諸外國のものより優れてゐると言はれてゐる。

 


閉ぢる