田中舘の日本式ローマ字 (三の8)

  この綴方決定に對して不滿を持つ者が大勢ゐたことは、後に會が分裂したことからも容易に察することが出來よう。田中舘愛橘は、明治十八年八月、『理學協會雜誌』に「本會雜誌ヲ羅馬字ニテ發兌スルノ發議及ヒ羅馬字用法意見」を發表し、日本式ローマ字綴方を提唱した。田中舘は「彼會創立日ならすして會員已に五千人に昇れりと聞く」と述べ

  * 夫れ事物の便利に隨て移り變るは水の低きに就くか如しとかや。今羅馬字の我國に行れんとするも實に此の譯柄か、果して然らは、止むるも止むべからす、障るも障ふべからざるものは羅馬字の流行なり、

と論じてゐるが、田中舘の意に反して、その後間もなく會が自然消滅してしまつたばかりでなく、今日に至つても「水の低に就くが如」く流行しないのは、田中舘の論法を以てすれば、ローマ字そのものが便利なものではないからだといふことにならう。

  ここで田中舘が主張した綴方は、今日日本式ローマ字と呼ばれるもので、「シ、チ、ツ」を si、ti、tu、「フ」をhu、ザ行ダ行を za、zi、zu、ze,zo、da、di、du、de、do、zya、zyu、zyo、dya、dyu、dyo と書く極めて公式的なものである。

  次いで、田中舘は「世の言語の記し方を論ずる者發音主義語源主義と分るゝと聞く」が、そのいづれもその主義を徹底すれば、言語を書き表はすことが出來なくなると論じ、更に標準式ローマ字では「フ」を fu と書くが、「ふみよむ月日」「ふる雨」の「フ」をイギリス人のやうに發音してゐる者はない、「シ、チ、ツ」に h や s を入れたために「百日通して物を書けば三日丈は英吉利風を眞似する爲めに無駄骨を折るなり」と、標準式ローマ字を批判してゐる。


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