外山正一の主張 (三の5)

   同十七年一月には、物集高見が『よゝのあと』を刊行、同二、三、四月には、外山正一が『東洋學藝雜誌』に「漢字を廢すべし」を發表してゐる。更に同十七年四月、西村茂樹は『學士會院雜誌』に「文章論」を發表、また同じ月の『東洋學藝雜誌』に、三宅雄二郎(雪嶺)が「假名軍の猛將をして一驚を喫せしむ」と題して假名文字論を攻撃すると、次號の『東洋學藝雜誌』で、外山正一が「三宅氏ノ文ヲ讀ミテ百驚ヲ喫セリ」と應酬してゐる。また同じ號の『東洋學藝雜誌』で、鈴木辰梅が「謹デ假名ノ會員ニ謀ル」といふ題で、漢字を廢止して片假名を用ゐることを提唱してゐる。

  更に同十七年六月、外山正一は『東洋學藝雜誌』に「漢字を廢し英語を盛に興すは今日の急務なり」を發表し、ローマ字論に贊成しながら、しばらく假名文字論に從ふと述べ、外山は翌七月の『東洋學藝雜誌』に「羅馬字ヲ主張スル者ニ告グ」を發表して、ローマ字論者の大同團結を提唱した。外山は漢字を廢することが先決であるとして


      * 未だ漢字を廢することに定りもせぬのに、假名でなくてはならぬの、羅馬字でなくてはいやだのと爭ふ者は、兵法を知らざる者と云はざるべからず。大敵を前にひかへ乍ら、戰ふことを差置きて、まだ取りもせぬ分取の割前に就て爭論する如き者は、言語に絶えたる者なり。斯る情態にては、敵に勝たんことは、固より出來ざるなり。

と論じてゐる。また外山は十七年十一月「かなのくわい」の會合において行つた演説をまとめて、翌月『新體漢字破』を刊行すると共に、『東洋學藝雜誌』に「羅馬字會を起すの趣意」を發表してゐる。この十七年における外山の活躍は大へんなもので、假名文字論とローマ字論とを一手に引受けた觀がある。「日本人中一人でも漢字嫌の者を多からしむる功能あらん」ことを願つた『新體漢字破』において、外山は、自分は「かなのくわい」の月の部に屬してゐるが、それは月の部が三部のうち一番人數が多いからそれに荷擔したまでで、雨の部であらうと、風の部であらうと、漢字を廢することを目的とする組なら、どれでもよいと述べ、次いで、家を建てる術、國を富ます術、彈藥を製造する術などは皆眞正の知識であつて、實際の役に立つが、「言語の如き文字の如きに至りては右等の知識とは大に異なり、之を知りたる計にては少しも益のなきものなり」「されば言語たり文字たり何と云ふて一つに限るにあらず何んでも知識を傳へ思想を交換するのに便利なるものがよし」と論じてゐるが、假に知識を傳へ思想を交換するのに便利な言語文字が存在してゐるとしても、それだけの理由でそれと交換しようとするのは輕率である。過去において言語文字が存在してをらず、新たに言語文字を採用する際なら、大いに便利といふことも考慮に入れるべきであらうが、その時においてすら、便利といふことだけで言語文字を計ることは、言語文字を驅使する人間の精神を無視した暴擧と言はねばならない。まして過去に豐富な文字文化を有する場合において、單に便利といふことだけで輕率な判斷を下すことは大へんな誤りである。しかも、便利だと判斷した言語文字が、眞に便利なものであるかどうか疑はしいとしたらどうであらうか。何を以て便利とするか、そこには各人各樣の評價があり、決して一致することはないのである。或る者はローマ字を、或る者は假名文字を、或る者は漢字假名交り文を、或る者は新字を、といふ風に、現に一致した結論を得るまでには至つてゐない。今後とも一致するとは思はれない。と言ふことは、つまり言語文字全體としては、便利といふことを比較の尺度にすることは出來ないといふことであり、便利といふ言葉を強ひて使ふとすれば、それは今迄の表記上の慣習を守り、その傳統に隨つて言語生活をするのが最も便利なことなのである。さうすることによつてはじめて、相互に理解することが可能になるのであつて、表記上の慣習を無視し、その傳統を破ることは、言語文字の機能を痲痺させることになり、それこそ不便利なことであると言はねばならぬ。一つ一つの言語文字を便利なものに改めることは不可能ではないが、その場合にも、あくまでも傳統に添ひ、正しい傳統を繼承するといふ意味において行ふべきものである。そのことを忘れて言語文字を改めようとすれば、目的とするところは便利にあつても、結果は不便利となり、合理を目的として、不合理となるのである。昭和三十四年の「送りがなのつけ方」が、統一を目的としながら、結果は逆に不統一となつたのも、そこに原因があると思はれる。

 

 


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