西歐言語學の借入(二の17)

  明治十三年二月、加藤弘之は、日本の國語國字の整理改革の必要を痛感すると共に、それには先づ才能ある者をヨーロッパに留學させ、博言學(言語學)を研究させる必要があると考へ、その旨學士院から文部卿へ上申させた。その後、加藤が大學の總長になつた時、博言學の研究のために留學を命ぜられたのが上田萬年であった。これはある意味において、その後の國語國字問題の方向を決定した一大事件であったと言へよう。上田萬年が留學した當時のヨーロッパの言語學上の立場を、今なほ國語國字改革論者は頑に守り續けてゐるのである。既に死物と化した形骸にしがみついてゐるのが今日の表音主義者の姿である。

  ヨーロッパの言語學を採入れること自體は結構なことなのであるが、ヨーロッパの言語學をそのまま我國の國語國字に當嵌めようとしたところに間違ひがあったのである。ヨーロッパの近代言語學には、言語生活と直結した國語國字問題を虚理するだけの十分な資格がなかつた。また、表音文字の上に築かれた言語學が、そのまま表意文字に適用できる筈もないのである。それにも拘らず、その當嵌まらない部分が生ずると、言語學の方にその缺陥があるとは考へないで、國語國字の方に缺陷があると早合點してしまつたのである。 明治十三年三月、文部省に編輯局が設置され、その局長に西村茂樹がなり、教科書の編纂に當つた。その翌年五月の小學教則綱領(第十一條)には「讀書ヲ分テ讀方及作文トス 初等科ノ讀方ハ伊呂波、五十音、濁音、次清音、假名ノ單単語短句等ヨリ始メテ假名交リ文ノ讀本二入リ兼テ讀本中緊要の字句ヲ書取ラシメ詳ニ之ヲ理會セシムルコトヲ務ムヘシ」とあり、その後教科書はこの綱領に沿つて編纂され、初級用のものには假名だけの文章が採用されるやうになつた。 また明治十四年十二月、伊藤圭介は『東京學士會雜誌』に「これもまたくちよくいふべくして、そのことばおこなはれかたきのせつ」と題する假名文字論を發表してゐる。


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