前島密の内申書 二の8

  また明治五年七月、文部卿大木喬任は、田中義廉、大槻修二、小澤圭次郎、久保吉人の四人に命じて『新撰字書』(漢字數三千百六十七字)を編纂させ、漢字の制限を行はうとした。
  同五年七月、前島密は「學制御施行ニ先ダチ國字改良相成度卑見内申書」を岩倉右大臣と大木文部卿に提出してゐる。前島は學制を施行するに先だち國字國文を改良せねばならぬとして、「彼ノ歎ズベク、痛ムベキ、大毒物タル漢字ヲ用テ教授セパ、彼等ニシテ開明富強ノ眞境實域ニ達セシムルハ、萬能ハザルベシト存候」と述べ、「西洋諸国ニ於ケル如ク、音符字ヲ専用シ新文法ヲ立ル」べきであると主張してゐるのであるが、前島は「文明富強ノ度ニ大差ヲ生ジタル」のは、その使用する文字に原因があると思ひつめてしまつたわけである。更に「今日ノ状勢二就テ之ヲ見ルニ、人々競フテ漢語ヲ話シ、漢字ヲ書シ、官私ノ文書殆ンド漢文ニ擬セソトスルノ傾向ヲ生ゼリ」と、當時の漢字漢文偏重の風潮に對する憤懣を述べてゐが、西洋文明を移入する際、好んで漢語が用ゐられたことは事實であり、前島が指摘したやうな弊害が見られたことも事實であらうが、その弊害の原因を文字即ち漢字にあるとしたことが間違ひであつた。そのやうな速斷を下す前に、漢字を使用する人間の表現行爲そのものに原因があると何故考へなかつたのか、そこに一歩の踏込みが足りなかった。漢字そのものに弊害の原因があるのではなく、それを使用する人間の側にあるのであるから、各個人が根氣よく實際の表現行爲を通じて國語の改善に努力すべきであるのに、明治以後の國字改革論者は、さういふ地道な努力をせずに、ただ漢字を追放することだけに躍起となってをり、随つて、彼等の爲したことと言へば、無用な混亂を徒らに惹き起しただけであった。そこには最早改善はなく、ただ破壊あるのみであり、文化の進展はなく、文化の後退あるのみであった。今日の文化が多少でも前進することがあるとすれば、良識ある人々が、さういふ文化の後退運動によく抗し得た結果であらう。今後も彼等が以前と同じやうに害毒を流し續けるとしたら、その害を最小限度に喰止めるといふ餘分な努力を止めるわけにはいかないのである。
  なほ前島密は山田敬三、平野榮と共に、「興國文廢漢字議」を草して政府へ建白しようとしたが、建議したとしても「一二政府の有力者も奈何とも爲し能はざる」と判斷し、直接天皇に内奏し、詔勅によって斷行する外はないと考へてゐたところが「華頂宮殿下には深く御賛成にて、難有も弊邸に御光臨を賜はり、大に御力を盡させらるべしとの仰せありたれば、政府への建議は暫らく之を見合せ、只管宮殿下を頼り奉りしに、不幸殿下の薨去に遇うて遂に其事を果さず」といふことになつてしまつた。その前文は「臣等竊かに歐米諸邦今日ノ盛ヲ致スノ源ヲ究ムルニ百般ノ事物一トシテ理ニ原カサルナク其理ヲ究ムルヤ必學ニ由ラサルナク其學ニ由ルヤ必自國ノ言語文章上音符文字トニ籍テ之ヲ修メサルモノナシ」といふ言葉で始つてゐるのであるが、何故「今日ノ盛ヲ致スノ源」を音符文字にあると考へたかは明白でない。むしろ白色人種と黄色人種との相違にあると考へなかつたのが不思議な位である。と言ふのは、その後人種改良論といふものが眞面目に唱へられたことがあったからである。次いで「漢字ノ弊害ヲ論ス」「國文ノ便利ヲ論ス」「興國文着手ノ順序」の三項目に分けて論じてをり、その「漢字ノ弊害ヲ論ス」において、「少年ノ斯學ニ就クヤ當初先無限ノ字音ヲ記セサルヘカラス」「次ニ無限ノ字形ヲ記セサルヘカラス」「次ハ無限ノ字義ヲ解セサルヘカラス」など、漢字の弊害を十三項目擧げてゐる。


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