二 明治前期の國語國字問題

前島 密の「漢字御廃止之議」 (二の1)

  徳州慶喜が政權を朝廷に返上し、三百年に亙る徳川の武家政治は終りを告げた。慶應三年(一八六七年)十二月九日、朝廷は「王政復古の大號今」を發し、攝政、關白、征夷大將軍の職を廢して、新たに總裁、議定、参與の三職を設けた。また翌明治元年三月十四日には「五ケ條の御誓文」が發表されたが、それは「舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ」「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」といふやうなもので、時代の方向を如實に物語つてゐる。更に明治二年には「版籍奉還」が、明治四年には「廢藩置縣」が實施され、徐々に新體制が確立されて行つた。
かういふ舊政體を廢し、新しい政體を整へようといふ風潮の中にあつて、國字問題としては、先づ前島來輔(密)が、慶應二年十二月、時の將軍徳川慶喜に「漢字御廢止之議」を建白した。前島は、先づ教育を普及するには、易しい文字文章でなければならないといふことから、表音文字の採用を主張し

   * 國家の大本は國民の教育にして其教育は士民を論せす國民に普からしめ之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひさる可らす * 果して然らは御國に於ても西洋諸國の如く音符字(假名字)を用ひて教育を布かれ漢字は用ひられす終に日常公私の文に漢字の用を御廢止相成候樣にと奉存候

と、論じてゐるが、漢字を「全く不用に歸せしむると申すは容易の事」ではないと、一應その困難な事を認め、次いで、文字を習ふことに長時問を費すことはよくない、隨つて假名字を用ゐるべきだとして

    * 實に少年の時間こそ事物の道理を講習するの最好時節なるに此形象文字の無益の古學の爲めに之を費しその精神知識を鈍挫せしむる事返す返すも悲痛の至に存奉候

と述べ、更に「因みに米人ウヰリアム某か一話を御参考の爲めに記して御賢覽に奉供侯」として、次のやうに記してゐる。

    * 同人は始て支那に航りたる頃一日或る一家の門を過たるに其家中に多數の少年輩か大聲に號叫する頗る喧囂なるを以て何やらんと門に入りて之を見れは其家は學校にして其聲は讀書の音なり 何故に斯く苦しけなる大聲を發して囂號するかと疑ひたるに後日實況を知れは怪しむに足らさる事なり 彼等はその讀習する所の書籍には何等の事を書たるやを知らすして只其字面を素讀して其形畫呼音を暗記せんと欲するのみなり 其讀む所の書は經書等の古文にして老成宿儒の解に苦む所のものなり 支那は人民多く土地廣き一帝國なるに此萎靡不振の在樣に沈淪し其人民は野蠻未開の俗に落ち西洋諸國の侮蔑する所となりたるは其形象文字に毒せらるゝと普通教育の法を知らさるに象文字に毒せらる主普通教育の法を知らさるに坐するなり今日本に來りて見るに句法語格の整然たる國語の有るにも之を措き簡易便捷なる假名字のあるにも之を専用せす彼の繁雑不便宇内無二なる漢字を用ひ句法語格の不自由なる難解多謬の漢字に據り普通の教育を爲すか如し 此の活溌なる知力を有する日本人民にして此の貧弱の在様に屈し居るは全く支那字の頑毒に深く感染して其精神を、痲痺せるなり云々と

  このウヰリアムの話を聞いて、前島は日本の文明が西洋に遅れをとったのは、その通り漢字を用ゐてゐる故であると固く信じてしまった。その後も、前島が度々このウヰリアムの話を引用してゐることからも、ウヰリアムが前島に與へた影響の大きいことを知ることが出來る。更に前島は、實例を以て漢字漢文の理解し難いことを述べ、西人某の談話を紹介して大和魂(愛國心)の問題に言及した後、地名人名に漢字を用ゐないことを提唱してゐる。


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