西川忠英と賀茂眞淵

享保四年(一七一九年)に、西川忠英は『町人嚢底拂』を著し、文字は言語の符契にて、人用に達するの至寶なり。此故に世界萬國おのおの文字ありしかるに唐土の文字は其數甚多くして甚むつかしき事世界第一なり。しかるに外國の文字も人用萬事を通達して不足なし。唐土の文字繁多なるも人用通達におゐて別にかはりなしと述べてゐるが、今日でも、多くの假名ローマ字論者に見られる議論で、文字は言語の代用品であり、言語や單に用を達するための道具に過ぎないといふ、一種の言語道具説を唱へてゐるのは興味深いことである。

また荷田春滿に學び、萬葉集を中心として、古典の研究、古道の復興に努めた、國學者賀茂眞淵は、『萬葉考』(寶暦十年、一七六〇年)に附した『萬葉集大考』において、

そもそもすめら御國の書は、いかにから文字をかれるも、その本こゝの言にしあれば、こゝの古こともてよむ時は、たとひ字にいささかうときも、本の意にかなふめり。さるをこのこゝろと古へのことばを得ぬ人は、恐れてえよくよみなさぬ事有なん。字ちふものは、物の目じるしとする繪のうつれるものにて貴からず。ことばちふものは、そのくにの天つちのいはするにて、皇朝にしては皇朝のふる言じしたふとくして、且あるじなれ。後の世に借たる字は、やつことして、いかにもつかひてん。

と言ひ、借用した文字である漢字のために國語が奴となつたことを不満とし、明和二年(一七六五年)の、『國意考』において、眞淵は漢字の用ある字といふだけで、三萬八千はあるといふが、と更に語気を強めて次のやうに述べてゐる。

かく多の字を、夫をつとむる人すら、皆覺ゆるかは。或は誤り、或は代々に轉々して、其約にかゝれるも、益なくわづらはし。然るを天竺には、五十字もて、五千餘巻の佛の語を書傳へたり。だゞ五十の字をだにしれば、古しへと今と限りなき詞もしられ、傳へられ侍るをや。

おらんだには、二十五字とか、此國には五十字とか、大かた字のさまも、四方の國同じきを、たゞからのみ、わづらはしきことをつくりて、代もをさまらず、ことも不便なり。さて唐の字は、用ひたるやうなれど、古へはたゞ字の音をのみかりて、こゝの詞の目じるしのみなり。其暫後には、字のこゝろをも交ヘて用ひたれど、猶訓をのみ用ひて意にはかゝはらざりしなり。かく語を主として字を奴としたれば、心にまかせて字をばつかひしを、後には語の主はふれ失せて、字の奴となりかはれるが如し。是又かの字の奴が、みかどとなれるわろぐせのうつりたるなれば、いまはしいまはし。

西洋の文字言語に對する十分な知識を身につけてゐなかつた當時の人々の中には、天竺には、五十字もて……とかおらんだには、二十五字とか……といふ言葉をそのまま信じた者も多くゐたであらうが、漢學者の中には、これに對して反論を試みた者も少なくなかつた。


閉ぢる