新井白石の文字觀

國語國字問題が問題として意識されるやうになつたのは、明治にはひつてからであるが、漢字漢語の排斥は、江戸時代の國學者や蘭學者の間で盛んに行はれた。その主張は極めて單純であつて、殆どが西洋文字の數の少ないことを論じ、漢字の數の多いことを以て漢字を排斥しようとしたに過ぎない。勿論西洋の文字を以て國字に換へようなどといふ淺薄な主張をする者はなかつたが、今日から見れば、その論理はあまりにも單純素朴に過ぎる。

新井白石は、當時幕府の重職にあり、宣教師の取調べによつて得た西洋の事情を、『菜覽異言』五巻(正徳三年、一七一三年)と『西洋紀聞』三巻(正徳五年、一七一五年)とにまとめた。その『西洋紀聞』中巻には

ラテンといふは、古の國ノ名、今はその地詳ならず、キリイキス、またそれに同じ、その中、ラテンに至ては、此方語音に相通ぜずといふ所なし、されば、諸國の人、これを學びずといふものあらず、又諸國用ゆる所の字躰、二ッあり、一つに、ラテンの字、二つに、イタリヤの字、其ラテンは、漢に楷書の躰あるがごとく,イタリヤの字は、漢に草書の躰あるに似たり、其字母、僅に二十餘字、一切の音を貫けり、文省き、義廣くして、其妙天下に遺音なし。

とあり、またそれに附して

其説に、漢の文字萬有餘、強識の人にあらずしては、暗記すぺからず、しかれども、猶ヲ 聲ありて、字なきあり、さらばまた多しといへども、盡さざる所あり、徒に其心力を費すのみといふ、

とある。後者は其説にとあるやうに、これは西洋人の意見を紹介したものであるが、白石の言葉と解しても、白石の書翰などから判斷して、それほどの相違はあるまいと思はれる。しかし、この一節を引用するに當り、其説にといふといふ言葉を省いて、白石自身の意見であるかのやうに紹介してゐる書物が多いが、あくまでもヨワン・シローテの見解として紹介せねばならぬものである。

更に白石は、享保二年(一七一七年)の『東雅』二十卷の總論で

また西方の人にあひて、彼方音を問ふに、其字母わづかに三十三字にして、天下の音としてうつすべからずといふものなく、彼人中土の文字多きを論じて、支那人はよく記性強しとこそ見えたれ、夫等の字盡く記し得て、天下の言に通ぜむ、いと煩しき事なり、我方の如きはしかならずなどいひけり、

西方諸國の如きは、方俗音韻の學を相尚びて、其文字の如きは尚ぶ所にはあらず、僅に三十餘字を結びて、天下の音を盡しぬれば、其聲音もまた猶多からざる事を得べからず、中土の如きは、其尚ぶところ文字にありて、音韻の學の如きは、西方の長じぬるに及ばず、我東方の如きは、其尚ぶ所言詞の間にありて、文字音韻等の學は、相尚べる所にもあらず、

と述べ、西方の文字と音韻の學が、東方より長じてゐることを指摘し、更に我國の言と漢字とが主客顛倒したことを次のやうに述べてゐる。

我が國の古言、其義隱れ失せし事漢字に行はれて、古文廢せしに因る多しとこそ見えたれ、細かにこれを論じなむには、此語と彼字と主客の分なき事あたはず、我が國の言、太初よりいひ嗣し如きは即主なり、海外の言の如きは即客なり、漢字盛に行はれしに至ては其義を併せて、かれに隨はずといふものにあらず、これよりして後客遂に主となりて、主はまた客となりたりけり、古言の義猶今も遺れるものにあるは、亦その幸にぞありける、

なほ白石は、『東音譜』において、一部假名の横書きを使ひ、西洋の文字のやうに、片假名を一語が一目で讀めるやうに綴り、それを左横書きにする案を提示してゐる。

以上の白石の論述に對し、川副佳一郎は『日本ローマ字史』の中で、新井白石は、慥に一個の廢漢字論者、二百餘年前に於ける堂々たるローマ字國字論者と云ふべきであると論じてゐるが、さう論ずるのは早計である。漢字の缺點をあげ、假名文字或いはローマ字の優れてゐることを述べたとしても、そのことだけから假名文字ないしローマ字國字論者であると斷定することは、あまりにも輕率である。漢字を廢してロ−マ字を採用しようとする論、即ち國字改革論とは、極めて大きな隔りのあることに十分注意する必要があらう。白石に對してばかりでなく、江戸時代及び明治初期の多くの論者に對しても、後世の假名文字論者、ローマ字論者は同様な誤りを犯してゐる。己が智能においても、肉體においても、他者より劣つてゐることを自覺することと、それ故に己を他者と交換しようと思ひつめることとの間には大きな距離があるのである。

單に文字の數を以て、漢字と西洋の文字との優劣を論ずることの不可なることは、今日では小學生でも判斷のつくことであるが、假に西洋の文字が漢字に優つてゐるとしても、それを以て國字を改革しようとするには、その前に考へねばならぬことがあまりにも多く且つ深遠である。急進的な假名ローマ字論者の中には、このやうな白石の立場を、國字改良運動にまで至らない未熟なものとして、不満を述べてゐる者すらあるが、それはただ、漢字の不備不足を論じ、ロ−マ字の簡易便利なることを説くことと、漢字を排斥しロ−マ字國字論を唱へることとを、表裏一體のものと誤認し、そこに大きな隔りのあることを認識し得ないほど幼椎な見識しか持つてゐないことを、自ら證明してゐるやうなものである。

白石の『西洋紀聞』『東雅』の書かれた年代は上記の通りであるが、それが公にされたのは、前者が明治十五年、後者が明治三十六年であつた。隨つて白石のこのやうな見解が當時の人々に影響を與へたとは考へられない。


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